見出し画像

【難病】脊髄空洞症だった③

何かをしなければという焦り

聖路加国際病院での検診を1ヶ月ほど先に控えた私は
その期間、進行する病の恐怖と
向き合わざるを得なかった。

経験上「怖い」という感覚は
「無知」から来るものだと考えている。

つまり、この理屈でいくと
脊髄空洞症という難病を理解さえできれば
恐怖はコントロールできる、ということになる。

この病については告知を受けて以来、
医学論文や学会のページといった
さまざまなウェブページを読み漁ってきたが
症状は人によって多様であり
治療方法も薬物治療、理学療法、外科手術など
多岐にわたっていた。

いずれも貴重な情報源であったが
当然ながらこれらの資料には
気休めになるような言葉は書いていなかった。

こうして脊髄空洞症の全体像については
次第に理解が深まっていったが
だからと言って恐怖をコントロールすることなど
到底出来るはずもなかった。

その代わりに恐怖のイメージが具体的になった。

病気に対して何もアプローチしなければ
この症状は進行し続け
恐怖のイメージは現実のものになっていく。

そこで私は西洋医学での治療は聖路加国際病院に任せて
いま出来ることとして
東洋医学の治療を試みることにした。

そしてネットで鍼灸院を探して行ってみた。
鍼灸は初めての経験だった。
大した痛みもなく大量の鍼が
手、頭、首、肩、さまざまな場所に
打ちこまれていく自分の体を見て
アジアのどこかの国で行われているような
奇祭を想像してしまった。

2回目の通院では鍼に電気も流してもらった。

3回目は鍼の量が増え
電気を流す時間も長くなった。

症状が和らぐことはなく
鍼灸師から長期の継続した治療が必要だと告げられたが
聖路加国際病院の検診日が近づいたので
鍼灸院の通院は辞めた。

結局、鍼灸の効果は分からなかったが
なにかアクションをしているという実感は
恐怖をいくらか和らげてくれた。

人に言えない

痺れの症状が出てからおよそ3ヶ月経つが
脊髄空洞症については医師の友人Nを除くと
誰にも言えなかった。

あたかも健康です、
というような顔をして過ごすしかなかった。

もし周囲に「難病なんです」と告げたら
どんな反応が返ってくるのだろうと考えた。

「大丈夫?」

という素朴な質問に対する答えを
私は持ち合わせていない。

この頃、左手の痺れは悪化しており
趣味で弾いていたギターのコードを抑えることが
辛く感じるようになっていた。

この先、キーボードを打てなくなったら
どうしようかと不安を覚えていた。

全くもって大丈夫な訳がない。
だが「大丈夫じゃない」と言ったら
きっと相手は困るだけだろう。

だからといって、へーと流されるのも
耐えられないと思った。

そして、客観的にみて
自分のことを面倒なやつだと軽蔑した。

私は極力、プライベートで
自分のことを知っている人と
会わないようにした。

主治医との出会い

待ちに待った日が来た。
これだけ何かの予定を
待ち遠しく思ったことはない。

3月19日。

私はようやく聖路加国際病院の脳神経外科に
行くことが出来た。

有名病院の脳神経外科医に会うということで
医療ドラマで見るようなエリート医師を想像していたが
診察室で待っていたK医師は
小柄な体格で大きな瞳が印象的で
私よりおよそ一回りほど上の男性医師だった。

どちらかと言うと町医者のような
和やかな雰囲気で
K医師が少し九州訛りのある口調で
話し始めながら人懐っこい笑顔を浮かべた瞬間、
私は数カ月ぶりの安心感を覚えた。

そしてMRI画像を見ながら
私の体に起こっていることについて
レクチャーを受けた。

私はキアリ奇形らしい。

キアリ奇形とは生まれながらにして
小脳が頭蓋骨に収まらず、
一部が頭蓋骨の下、
つまり頚椎にはみ出ている状態を指す。

このはみ出た分の小脳が頚椎部を圧迫することで
髄液の流れが悪くなっており
脊髄空洞症を引き起こしているということだった。

K医師いわく脊髄空洞症は
これまでの私の人生において
どのタイミングで発症してもおかしくなかったという。

そう聞かされて世界一周をしたり
東京で放送作家をしたり
好きなことをしてきた「いま」は
決して悪くないタイミングであるように思えた。

脊髄空洞症について理解が出来た「いま」
あの恐怖はもう消えていた。

そしてK医師から、治療方法として
手術をするか
またはまだ軽症のため投薬治療による経過観察という
2つの提案をされると

私は即答で手術を希望した。

敵の正体が分かった以上、
あとは先手を打って戦うだけ。

【難病】脊髄空洞症だった④に続きます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?