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兼本浩祐『普通という異常』|私が見られる唯一の「私」


「普通」という言葉は不思議だ。


⁡「それは、誰だって普通に傷つくことだよ」
と言われれば、“(そう感じるのは)私だけではないんだ”と救われるし、

「君の作品は、なんというか、普通だね」
と言われれば、“(この発想は)私だけではないんだ”と傷つく。

「普通」という言葉には、ある一定の境界線を引いて、内と外とに分ける効果がある。


私たちはリンゴを見て、「リンゴ」だと答えることができる。けれど、この世界で唯一、私だけが「私」を見ることができない。私が「私」のことを知るためには他者が必要であり、他者との関わりや指摘によってのみ、「私」は形容される。


「普通」とは、すなわち「いいね」のことだと著者は言う。

自身の行動を他者から「いいね」してもらうことで、ドーパミンが駆動し、「いいね」的行動が定着していく。そうして「私」は社会に馴染む。

逆に、他者からの「いいね」的行動から逸脱するとき、他者は「私」に“いじわる”をして、「普通」の枠に閉じ込めようとする(ちょうど『コンビニ人間』の古倉がそうされたように)。

もし仮に私たちの社会が「普通」という“基線”に囲まれているとしたら、

健常的心性:基線を認識し中に留まろうとする
ADHD的心性:基線を認識できず無意識にはみ出す

と、解釈できるらしい。ADHD的心性を持っている方は、他者の「いいね」も「いじわる」も気にせず、ただ我が道をゆく。だから、“異常”だと思われてしまう。


だけど、他者からの「いいね」を過剰に気にすれば、健常的心性も病の一つになり得るのではないか、と本書は主張する。

SNSの発展も伴って「いいね」される事柄が加速度的に変わる世の中。
「色恋、金、名誉」の情報が蠢くなかで、“健常者”は「普通」という基線にがんじがらめになっている。過剰な自己や他者への「いいね」は、「私」をひとつの認識の中に固定させてしまう。


常に「普通」を求めて窮屈になっている私たちに著者は、時にはADHD的心性を生きることを推奨する。

それは他者や社会からの「いいね」を気にせず、自分からだけの「いいね」に従って行動することである。いや、もはや「いいね」もいらない。ただただ衝動に従って行動してみること。

誰しもが「普通」の内に生きてしまえば、社会は固定され、発展もしない。
たまには、意識的に「普通」という基線から一歩外に出てみる。意外にも、そういった脱構築的な“衝動的行動”だけが、私が見られる唯一の「私」だったりするのかもしれない。


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