悩むことを放棄しない
先日、自立と自律についてnoteを書いた。
それをキュッと140字にまとめてツイートしたところ、けっこう反響があった。
幸いにも、共感の声が多かった。
一方で、患者さんの自律を守ることはそんな単純じゃないよ、というご意見も。
これは本当にそう。
施設や病院側も患者さんを転倒や、その他のアクシデントから守らなくてはならない。
そして、それを限られたマンパワーの中でやらなくてはならない。
僕が述べたことは自分でも綺麗事だと思うし、現場はもっと大変で疲弊している。
けれど、そんな中でも忘れてはならないの想像力だと思う。
制限することや、オムツをお願いすることは、その人の状態によっては仕方がないことだ。
けれど、大事なのは医療者側がいつしかそれが“当たり前”になってしまわないように気をつけることだと思う。
病院や施設という囲まれた空間にいると、いつしか世間との“当たり前”がずれてくる。
歩けないなら動かないのが当たり前
トイレに行けないならオムツでするのが当たり前
食べられないなら経管栄養するのが当たり前
「◎◎が損なわれているなら、△△という処置をする」
それが、ある種の決まったルーティンのようになってしまっている。
そこに欠けているのは、人への想像力だ。
その処置を強制するとき、その人の心はどうなるか?羞恥心はどうか?尊厳はどうか?その人の自律心はどうなるのか?
医療者にとって一番必要な知識は「人」だと思う。
それは、まさに想像力であり、相手を慮る力でもある。
以前に、「死に様とはすなわち生き様だ」というnoteの中で“人を患者にするのは、もしかして医療者なのかもしれない”と述べた。
医療や処置だけを優先し、医療者が“人”を見なくなったとき、その人は真に患者にさせられてしまうのだと僕は思う。
文章がこんがらがってきたが、言いたいことは、
・医療の当たり前を世間の当たり前にしないこと
・想像力を持つこと
怪我や病気を診る前に、人を見る。
出来ないことや欠損を評価する前に、人を知る。
それが医療者にとって必要なことだと思う。
患者さんの自律心を守りながら、その人自身の体を守るというのは、とても難しいことだということは身をもって知っている。
だから、この手の話題はいつまで経っても解決が見えない。
でも、めんどくさいからと、悩むことを放棄してしまわないようにしたい。
目の前の違和感に目を瞑り、見逃したとき、それは感情を無くした機械のようになってしまうと思うから。
それでは、また。