神を細部に宿しすぎ問題
PCを使ってデザインするほとんどの時間、私たちは拡大または縮小された状態のものを見ている。
B1サイズのポスターのように大きなものはPCの画面内に収まりきらないので、全体を見渡すには縮小表示せざるをえない。名刺のように小さなものは原寸で表示しても画面に収まるけれど、ディテールを調整するために拡大表示することがある。全体と細部の間を往復しながら拡大と縮小を繰り返す。すると、いつのまにか本来のサイズ感を見失う。
そうしてデザインしたものを原寸大で出力すると、画面上の印象と違うことに驚く。縮小表示した状態ではディテールが見えなくなり作業が大雑把になるし、拡大表示するとディテールが見えすぎて、誰も気にしないような些細なことにこだわってしまうからだ。
PCの前に座ってデザインをする以上、このギャップは常につきまとう。0.1%刻みの拡大と縮小を繰り返せば繰り返すほど、サイズ感はますます曖昧になっていく。
DTP以前のデザイン環境に想いを馳せてみる。私が以前勤めていたエディトリアルデザインを軸とする会社では、昔は「レイアウト用紙」を使ってデザインしていたらしい。これに原寸で手書きの指示を書き込み印刷所に渡すと、指示通りに写真やイラスト、文字が印刷された色校正が上がってくる。
POPEYEやBLUTUSのアートディレクターを務めた新谷雅弘さんの著書、『Mac世代におくるレイアウト術 デザインにルールなんてない』では手書きのレイアウト指示と、その仕上がりが掲載されている。すべて手で描かれた文字やイラストのひとつひとつが丁寧で、額縁に入れて飾っておきたくなるような美しさなのだが、仕上がりの図版のそばにこんなキャプションがある。
レイアウト用紙の上で想像していた完成図と校正とがあまりにも違っていてガクゼンとすることが多い。(『Mac世代におくるレイアウト術 デザインにルールなんてない』より引用)
デザイナーが自由にデータを編集し、常にプレビューできるDTPとは違い、色校正が上がってくるまで仕上がりのイメージが難しいという不便さはあるけれど、現代のデザイナーが失ってしまった原寸でデザインする感覚が当時のデザイナーにはあったのだと思うと、少し羨ましい。というか、画面上の印象と出力の印象とのギャップに苦心するなんて、我々デザイナーは退化しているのでは…? そういえば、大学の先生に「今後指定紙でデザインすることのないみなさんは、ちょっと可哀想かも」と冗談まじりに言われたこともあった。
写真植字よりもさらに古い印刷の手法として、活版印刷がある。活版印刷は、角柱状の鉛の先端に文字が彫り出された「金属活字」を使って印刷する。文字が物体として存在するため、デジタルフォントのように自由に拡大縮小することができない。したがって、デザイナーは限られた選択肢の中から文字サイズを選ぶことになる。活版印刷においては、オブジェクト=物体なのだ。
それはつまり、小さな活字は小さく使うことを、大きな活字は大きく使うことをそれぞれ想定してデザインされていたということだ。選択肢が限られるという点で現在の環境より不便なのだけれど、デジタルフォントは無限に拡大縮小されることで、文字に宿る意志が失われているように思う。ちなみに、macに標準でバンドルされている「游明朝体36ポかな」は、36ポイントのサイズでデザインされた明朝活字をモデルにしたフォントだ。
上に挙げたようなアナログ手法で作られたものと比べて、PCで作られたものを見ていて感じる気持ち悪さってある。手書きの味とか印刷によるニュアンスの話もまあわかるけれど、拡大、縮小、拡大、縮小…と繰り返し、細部にこだわり過ぎながらデザインしていくうちに、そのものの自然なサイズ感を見失っているから、というのもあると思う。
そうはいっても、現代においては、写真植字も、活版印刷も、一般には使われていない。それならいっそ未来に目を向けて、VRの技術が発展し、仮想空間の中であらゆるものを原寸でデザインできる環境を妄想してみる。ポスターと名刺を目の前に置いてデザインできるVR空間だ。いやその前に、適当に指示をすればAIが勝手にデザインしてくれるようになるかもしれない。