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"真理を探してへろへろになっちゃう癖"を真剣に考察(これもクセ笑)

ある学びの場で、「人にはいつも落ちている落とし穴がある。」「その穴に落ちなくなるのにはいくつかの段階があって…」という話を聞いたことがある。

わたしにも、認識しているだけで2大落とし穴がある気がしているのだけど(笑)そのうちのひとつの穴が、「どうしたらいいんだろう穴」なのです。

・やった方がいいんだろうなと思うけれど、やりたくないなあと感じる時の、やったほうがいいんだろうか?
・今これをしているが、他にもっと別のやるべきことがあるんじゃないかと言う時の、これでいいのだろうか?
・今感じていること、考えていること、やってることは、本当にそうなのか?という問い。

今日も絶賛その落とし穴でわけがわからなくなり、どうしたらいいんだ~と書き出していてふとわかった。
そういう沼に引きずりこまれているとき、もはや悩んでいるのはそれそのもののことではない。

例えば「メール返さなきゃなんだけど、どうしても気が重い…」があったとする。

表面的な層に、他人へのメールは24時間以内に返すべし!的なものがある。
さすがにそういう誰のだかわからないべきはいったん置いておこう、ということで置いておく。

でも、
「未完了のやるべきことはやったほうが自己信頼感に繋がる」
「自分の意思を大切にしてあげることが自分への信頼に繋がる」
そういう人間心理に関するもっともらしいものまで出てくると、どっちなんだろと思えてくる。

こうなってくると、人の、自分の、内面ではいったいどんなことが起きているんだろう?というレベルの問いになってくる。人という生き物の原理として、群れからはじき出されないための行動が優先されるのかしら?とかの疑問まで出てくる。

つまるところ、

人が、生きるってどういうことなんだろう。
生きるうえで、なにがほんとうに大切なんだろう。

共通すること、人類共通の信念にするべきことがあるのか。
共通の答えがないから、自分の信念に頼る、自分の感覚に聞くしかないのか。

そういうところに、たどり着いてしまう。

でも、そういうところでわたしに今すぐわかる「答え」なんて、まだほとんど、全然ないから、はまりだしたら抜け出せないのだ。


「本当にこういう理由で、こうするのが正しい/わたしはこうする」
そう言いきれることなんて、実はひとつだってない。

そう改めて自覚すると、迷って当然という気がしてくるけど

へろへろになって、ご飯を食べてちょっと復活して、もう一度ノートに向かったときにふとこんな図を書いていた。

で、今のわたしに当てはめたら…?を書いてみようとして、いや書き換えるというか、同じじゃん。と思った。

そして、さっきの「生きるうえでほんとうにそうだといえることを探してしまうが、見つからないので身動きとれなくなる」については、どこに当てはまるのかと思ったら、これはどっちでもないような…と思った。

なんというか、そもそも、「生きる」に向かっていくものじゃない感じ、と直感的に思った。不自然であるから辛い。なのかなと。

わたしの迷いまくり現象の一番根っこには、この世界には真理、原理、なにかしらの答えがある。それは”わかる”ことができるものだ。それに従って行動する・生きるのだ。という思い込みがある気がする。

でもなぜだかふと思った、生きるって、生存するための食べる・暮らすと、何か精神的に満足を求める気持ち、そのふたつからできているんじゃないか?の観点からすると、
「わかるということ、答えを出すこと」って実はあんまり必要がないんじゃないかと思えてきた。

まあでも、この文章だって結局、生きるのに答えはいらないのかもしれないといういち真理を見つけようという情熱がはたらいてしまっているから、わたしはこれを捨てたくはないのかもしれない(笑)

でも、こたえがわからなかったら生きられないということはなく、むしろ「わからないけどなんかこうする」くらいで自然なのかもってことを視野に入れておきたい。
そのうえで、精神的な充足を得るための行動の一環としての哲学、くらいのものとして、真理を探しちゃう熱で心豊かに過ごせたらいいなあ。


(2024.10.28深夜)

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なつき
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