毎日が美しさに出会う旅
大学のすぐそばに、一番好きなカフェがある。
自宅から大学まではちょうど1時間半くらいかかるから卒業してからはなかなか行かなくなってしまった。だけどいまだに一番好きなカフェ。
少し前から、行きたい行きたいと思っていて、昨日やっと行ってきた。
そこのマスターがつくるケーキは本当に本当に美味しくて大好き。楽しみにしていた木苺のクランブルーチーズケーキはひとつだけ残っていた。
ケーキを選んで、席に座って、注文したカフェラテをマスターが淹れてくれるのを見る。
コーヒーを注いで、温めたミルクを小さなお鍋から注いで。そして最後に、カップをソーサーに載せるとき、カップの底をぎゅっと一度手のひらで包んでいるのが見えた。
こぼれた水分を拭いてくれたのか
温かさをたしかめたのか
なんの意味もないマスターの癖かもしれない、おいしくなるようなおまじないかもしれない
わからないし、どれでも、どれでなくてもよかった。
ただ、それを見た時、なんて言えばいいんだろう。
嬉しい? 素敵? ありがとう?
そういう明確な感想が浮かんだのではなく、
そこにあったやさしさがそのまんま届いてすっぽり包まれたみたいな、そのやさしさそのものに自分もなったみたいな、からだで感じるみたいな、そんな感じがした。
こういうのって、ほんとうに、人生のごほうびみたいな瞬間だ。
こんな瞬間、こんな景色をわたしは集めてみたいんだなと思った。
集めてどうするのかというのはあんまりわからないんだけど、
世界のなかにある美しさを知りたい、じぶんが美しいと思うあらゆるものに出会ってみたい、ということかなと思う。
今夢中になって読んでいる矢萩多聞さんの本で言っていた言葉も、あらためて思い出した。
インターネットで個人が何かを届ける時代のスタイルについての話の一部分なのだけど、わたしにはこの言葉のイメージが、とてもしっくりきて、そう!こんなふうがいい!と思った。
「だれかにごちそうするためにも、じぶんが美味しいと思うものを探し求める。」
ここ最近ゆっくりと浮かび上がってきていた、今の自分が気持ちいいと思う生き方って、ちょうどこんな感じだったのだ。
美しい。美味しい。
それはもう、みんなに共通の基準とか理由とか正しさとは別のところにあるもので、
ひとりひとりがただ持っている感性と響き合ったところに存在するもの。
わたしはわたしの旅をして、わたしにとっての美しさや美味しさにたくさん巡り合いたい。そしてわたしもどこかでだれかに、美しいもの、美味しいものを、届けられたらいいなと思う。
「わたしだけにできること」なんかである必要はないと思ってる。「わたしにも届けられるもの」くらいでいいけど、やっぱりわたしも、味わうだけじゃなくごちそうしたいし、その喜びも知りたい。
今まで出会った、これから出会う、たくさんの美しさや美味しさは、わかりやすい結果には現れなくてもなんらかの繋がりできっとわたしの心を豊かにしてくれるし、そんなわたしと関わり合ってくれる人たちにも、なんらかのかたちで届いていくはず。
毎日を、美しさや美味しさに出会う旅だと思って生きてみる。
それを届けるようなつもりでこのnoteも書いていけたらいいなあ。