感性とデータについて、野球界の対談から
これはおもしろかった。
野球でもデータがすべてに優先される。
データが主体で、人間は従属される関係になっていると指摘している。
アメリカはベトナム戦争で、ベスト&ブライテストの知性で戦いに挑んだが、結局ベトナムの人々の素朴な力に押し負ける形に終わった。
アメリカは、米軍兵士ひとりに対して、ベトナム兵を何人効率的に殺害(ボディカウント呼んだ)するかを指標とした。
しかし、その指標が全体を表しているわけではない。ベトナムの反米感情やゲリラ戦での指標の有効性などはまったく無視された。
のちに、マクナマラの誤謬として知られるようになる。
目に見えるもの、人間の認知にわかりやすいものしか見ない。
わかりづらいものへの関心や注意を向けることがなくなる。
見えにくいものを切り落とし、システムを全依存する。
野球の打球判断での走塁をするか否か、そのときに取るべき体勢はどうあるべきか。この辺はデータに表れない。
こういった部分を、イチローは「感性」と表現している。
私たちの日常生活も同様の現象がシンクロしているように見受けられる。
ほとんどがデータやAIが主体になって、人間が従属する主従関係になっていくのではないだろうか。