見出し画像

幸せってなんだろね。

「幸せの一文字でサチです」実生活で名前を聞かれるとそう答える。
(「イチコ」は夫の実家のネコの名前なのです)

◇◇◇

「周囲を幸せにできる子になってほしくて」
小学生の頃、“自分の名前の由来を調べる”という宿題で母から回答をもらって、軽〜く衝撃を受けた。

それまでは「本人が幸せな道を歩めるように」と名付けられたのだと当然のように思っていた。

「自分が幸せに」と「周囲を幸せに」だったら、全然意味が違う。むしろ正反対じゃん。アイデンティティの崩壊といったら大げさだけれど、自分の中心にあった指針がぐらりと揺らいだような気がした。

◇◇◇

「他人を幸せにできると思うこと自体、傲慢だ。私は、とことん自分の幸せを追求してやる」
親の願いに反発を覚え、周囲を傷つけるような行動に走ってしまった時期がある(主に恋愛面)。

やってみて分かったのだけど、自分の承認欲求や快楽を優先するのって、ほんの一瞬のお楽しみ、スパイスみたいなもんで、幸せとは全然直結していなかった。
自分のことを大切にしてくれた人が悲しむのを見て「幸せだ」って笑えるほど、わたしは逞しくなかった。

人の幸せ、自分の幸せ。
完全に対立するものではなく、かといってイコールでもなく。
うまく溶けあう部分もあれば、分離してしまう部分もある。いろんな画材を使って描くグラデーションのようだなと思う。

◇◇◇

今はといえば。
わたしは自分の人生に充足感を持っていないと、他人の幸せを願えない。ぜったいにどこかで妬みや嫉みを抱いてしまう。

だからまずはきちんと、自分のことを。
そのうえで余剰は惜しまず人に使う。余剰部分が、年齢とともに増えればいいなと願っている。

「自分が幸せに」と「周囲を幸せに」。
正反対だと思っていたわたしの願いと親の願いは、いつしか通じ合っていた。

自分が幸せになったその先の、周囲の幸せ。
うん。悪くない。ぜんぜん悪くない。


すこしだけ憎んでしまったこの名前も、いまは大好き。
わたしの名前を呼ぶたびに、大切な人の頭のなかに「幸」の文字が浮かぶなんて。とっても素敵なサブリミナル効果だ。


この記事が参加している募集

お読み頂き、ありがとうございました。 読んでくれる方がいるだけで、めっちゃ嬉しいです!