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相互理解
人生40も後半に入ると、「相互理解」がありえない。なんて話はザラに出てくる。本日は、「相互理解」について問いたい。
「相互理解」とは、一体何なのであろうか。
そして、「相互理解を放棄する」ことは、「対話を放棄する」ことと同義であるのだろうか。ということも、ぜひ問いたい。
世のご夫婦は一様にうなづいてくれることを信じるが、私はいまだかつて、旦那さまも子ども達も、相互理解できた。などと考えたことがない。
毎日それに務めるが、毎日のように叶わない。
しかし、一緒に衣食住をともにしているし、できている。
何かにおいて相入れないからといって、その人との対話を全てにおいて排除することは、果たして正しいことなのか。
オープンダイアローグという試みがある。冬木糸一の主催する不登校児のための家庭教師事業にて、指導の一環として採用されている。(冬木糸一に関しては、ぜひ、これまでのわたくし。椿noteで経緯を見てもらいたい)
私の息子は不登校になったことはないが、さまざまな理由で不登校になった友人との交流がある。不登校をする側も、事情はそれぞれなのだ。
コロナの初期、学校に長期間登校できなかった時期に出た大量の課題と、ずっと家の中にいたため勃発した兄弟間の不和にむきあうために、こちらの家庭教師事業にお世話になったが、その際、何よりもこのオープンダイアローグがたいへんためになった。
冬木糸一に息子を会わせたくて、顔合わせをお願いできないかと東大出身で日銀にもお勤めの責任者さんに何度かお願いしたが、ほかの話題に乗じるサンクコストのお話をされたうえ、8ヶ月の間、冬木さんが来てくれることは一度もなかった(これなんども言いたい。その責任者さんには真摯に届けたメールも無視され、不思議なことに、そのメールはメールBOXから消えてしまった。)あの時期だ。
過去と現在は繋がっている。
そして、現在は未来に繋がっていく。
オープンダイアローグでは、本人のいない場所で本人の話をしないことが鉄則として挙げられている。考えてみてほしい。どうしてそのようなルールが設けられているのか。
当事者のいない場所で、当事者と面識や直接的な関わりのない人にする話は、果たしてそれが当事者本人のためだ、という動機づけがあったとしても、当事者の納得を得られる話であるだろうか。
私のこのnoteは、個人的に影響が少ないうえ、どういうわけか私より後にTwitterにて作成された同名のVTuberアカウントによって友人に名前を検索してもらっても検索上位に反映されることがない。
発信するにも時間がかかる。けれど、話しかけられた際の問いにはきちんと答えていきたいと思う。
人だからこそ、間違いを犯すこともあるだろう。
たとえそれが、法律に触れるようなことでなくてもだ。
その時々に出会った人々を、一時期を基準に、ただ一つの可変性のないフローチャートへ投下することが。その過去から未来を、成長変化のない個として一方的に拒否し、話し合いを公開しないという行為が。果たしてその間違いを正し、継続的で循環可能な未来へとつなげることができるのだろうか。
追記:相互理解できるかは不明だが、先日、こども達と旦那さんは、用意したおやつを全部食べずに、立ち動いていた私の分を残しておいてくれた♪。
これは普通にうれしかった。