「まわりの2倍働けば、早く出世する」と本気で信じて行動した頃から昇華した話
20代の私は、「まわりの2倍働く。そうすれば、早く出世する」と信じていた。信じるだけでなく、そのための方法を編み出し、実践していた。
世界30万人企業の入社式に始まった出世レースをぶっちぎりで駆け抜けたかった私が、やがて創業4年目の100人スタートアップに移り、ついには個人事業主として独立してしまうとは。挙句の果てに、その度に約束された年収を手放しているとは、想像していなかった未来だ。
しかし、不思議なことに、その過去と今を切り離せない感覚もある。
あの頃のことを、少し書いてみたい。
***
2004年の春。営団地下鉄が東京メトロに変わった日に、私は、世界30万人企業に入社した。北海道から出てきた私は、通勤電車に度肝を抜かれた。押しつぶされる通勤ラッシュの中で、右足が浮き、車両の床を踏めない。左足で1本立ちして、私は会社の最寄り駅に着いた。
「これが東京で働く」と思い知った。まわりに数え切れない人が居て、自分が居る。これは、競争だ。
ほどなくして、私は、現場に配属された。同期の中で、その現場に配属されたのは私だけだった。私の上司が、さらにその上長と話しているのが聞こえた。
「新人を、あの現場に放り込んで、あの新人をつぶす気か?」
「いや、あいつは大丈夫です」
「その新人」である私は、「期待を超えなければ」と思った。期待に応えるだけじゃダメだ、期待を超えるんだ。そうしたら、きっと、上司にも認めてもらえる。
そこで思ったのが「まわりの2倍働けば、きっと認めてもらえて、早く出世できるんじゃないか」だった。そして、それを信じるだけでなく、自ら実践した。(もちろん、会社に強制されたわけではなく、100%自らの意志だ)
では、どうやって2倍働いたのか。ロジックは極めて単純である。
1.5 * 1.5 = 2.25 であり、これで2倍をクリア。我ながら名案だ。今となっては馬鹿らしいが、本当にそう信じていたのだ。
1.5倍の時間をつくるために、毎朝8時前から動き、1日を仕事やスキルアップのために費やした。昼ご飯の所要時間を更新するたびに、充実感を得ていた。 (繰り返すが、自分で選択した行動であり、強制されたものではない)
1.5倍の生産性を求めて、PC操作のショートカットを、覚えまくった。キータッチも、練習しまくった。先輩から「もっとゆっくりタイプしてくれないと、目が追いつかない」と言われた。強烈な褒め言葉として受け取った。我ながら信じ難い集中力だった。
「仕事ができる」と認められたい一心で、休日を、身なりに注いだ。何足もの革靴を磨き上げ、毎月ワイシャツとネクタイを買った。都心のテーラーに顔馴染みのスタッフが居ること、購入の度にポイントが増えていくことが、誇らしかった。両手いっぱいのカフスボタンを持っていた。
私の努力は実を結んだ。同期の中では早い時期に、私は、役職で飾られた自分の名刺を手に入れた。念願の名刺だった。最高の気持ちだった。
今思い返すと、承認欲求の塊でしかない。
しかし、それが私にとって、生きることだった。
***
そんな中、2011年に東日本大震災を経験した。
「未来は、今の延長線上にある」と信じきってきた価値観が崩れたとき、ふと自分に問いが立った。
結局、この問いに4年間向き合った果てに、2015年に自然エネルギーのスタートアップに移った。
役職も名刺も失くなる。年収も減る。それどころか、誰もが知る大企業から、誰も知らない若い会社に移る。自分を守る声と対峙し、覚悟を決めるまで、4年かかった。
その瞬間は、「誰かに勝つ」ことを諦めた瞬間だったのかもしれない。
今、その想いがさらに昇華し、フリーランスとして小商いをしている。またもや年収は減り、都心のテーラーどころか、最後に新品の服を買ったのがいつかも覚えていない。しかし、今も自分を刺してくる「あの問い」が、自分につなげてくれる。
***
今、過去の自分を思い返すと、とても肩が凝る。息が詰まる。かなり恥ずかしい。令和の今から見れば、働くスタンスに疑問も感じる。(さらに繰り返すが、100%自分の意志でやったことだ)
しかし、若い自分は、生きるのに必死で、本気だった。本気の絶対値が大きかったからこそ、役職と名刺にしがみつく手を放すのに4年もかかった。その本気の絶対値は、スタートアップやフリーランスの場に移っても、形を変えて残っていると信じている。そうなら、2倍働いた甲斐もあったもんだ。
本気の過去と、想像していなかった未来に、花束を。