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安心感が生む、心からの笑顔

❏歯科検診が待ち遠しい娘

歯科検診の日の朝、小学1年生の娘が言った。
「今日はミカン味とモモ味、どっちにしようかな?」

歯科クリニックに行くのを待ち遠しそうにしている。歯のクリーニングのときの歯磨き剤の味を、ミカン味とモモ味、イチゴ味から選ばせてもらえるのが楽しみなようだ。

時代が変わったなと、思わず微笑んでしまう。

私が子供の頃、歯医者さんは「怖い場所」だった。当時は虫歯が進行して初めて行く場所。治療が始まると、あの甲高い機械音が響き渡り、歯を削られるたび頭に振動が伝わった。どうしても行きたくなくて母を困らせたこともあった。

大人になると、少しずつ歯医者さんへのイメージが変わっていった。定期検診で歯の状態をチェックしに行くようになると、歯を削る治療はほとんどなくなった。いつしか「怖い場所」から「歯を守る場所」へと、歯医者さんのイメージは変わっていった。

やがて二人の子供の母親になると、歯医者さんは「家族の健康を守るパートナー」になった。定期検診のおかげで、子供の歯の健康が守られている。家族の健康管理を一手に担う母親にとって、これは心強い味方だ。

「うちの子、ちゃんと歯磨きできてる?」「永久歯、まっすぐ生えてるかな?」育児中の母親は悩みが尽きない。次々湧きあがる些細な悩みも、定期検診のついでに相談できるのが、本当にありがたい。いつしか歯医者さんは身近な存在になっていた。

そのせいだろうか、我が家の子供たちは生まれてこのかた虫歯になったことがない。


❏異国の地での歯科治療体験

私たちは、何かあればすぐに適切な治療が受けられる安心感に、日々支えられている。いざそれが失われると、どれだけ恵まれていたかを痛感する。

1年半前、アメリカで歯の治療を受けたときがそうだった。夫の仕事の関係で2年間暮らしていた時のことだ。

アメリカには日本のような国民皆保険制度がなく、基本的に医療保険は個人で加入する。ありがたいことに、夫の会社が私達家族にアメリカで使える医療保険を支給してくれたが、歯の治療は含まれていなかった。

アメリカのお菓子は砂糖の量が多く、子供達が虫歯になるリスクは日本より高い。不安を払拭するため、日本へ一時帰国するたび、かかりつけの歯医者さんでチェックを受けていた。「お菓子を食べたら水を飲んだり、キシリトールガムを噛むといいよ」と歯科衛生士さんが子供達にアドバイスをくれる。私の不安も和らいでいた。

しかし、アメリカに戻ってわずか2カ月後、なんと私の歯の詰め物が取れてしまったのだ。次の帰国予定も未定だったので、歯科クリニックを探して予約を入れた。アメリカの医療費は高額で有名だが、歯の治療費は特に高額で、「保険なしで治療を受けるくらいなら、往復航空券を買って日本に帰国して治療した方が良い」とまことしやかに囁かれるほどだった。

診察の日、緊張しながらクリニックへ向かった。診断の結果「詰め物(クラウン)が破損しているので作り直しが必要」とのこと。治療費は約2000ドル(30万円超)だという。ネット情報で100万円レベルも覚悟していた分、少しほっとしたものの、大きな負担であることに変わりはなかった。

担当医は「もし支払えなければ1/3の費用で代替物を詰め、悪化を遅らせる暫定処置もある」と教えてくれた。ただし虫歯が神経にまで達すれば、こちらのクリニックでは対応できないわよ、とも告げられた。そうなれば治療費はとんでもなく膨れ上がるだろう。30万円を支払って治療を受けるしかない、と覚悟を決めた。

家路につくため薄暗い地下鉄に乗り込むと、心の中に重い雲が一気に広がった。

その日から、歯科クリニックの会計担当者や保険会社に問い合わせて、何とか治療費を安く出来る方法がないか可能性を模索した。クラウンの破損が「物損扱い」で保険請求できるかもしれないと知り、その手続きも試みた。「アメリカでは自己主張しないと生きていけない」という現実を前に、勉強中の英語を駆使しながら見えない何かと戦っていた。

まぶたを閉じると、地球の裏側にあるかかりつけ歯科での穏やかな時間が浮かんだ。

ある朝、保険会社の担当者からのメールを開くと、思わぬ朗報が届いていた。私の加入していた医療保険に年間20万円まで虫歯治療費が80%カバーされる特約が付いていることがわかったという。その瞬間、肩の力が抜けて、思わず大きく息を吐いた。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。2か月間の戦いが、ようやく終わりを迎えた。

誤解のないように言っておくと、決してアメリカの医療を批判するつもりはない。私のケースもかなり特殊だったと思う。ただ、置かれた環境や状況が少し違うだけで、当たり前のように享受してきた適切な治療は、急にハードルの高いものになってしまった。自分がどんなに恵まれた環境にいたかを改めて噛み締めた。


❏見えない安心に包まれて

あれから、日本に帰国して一年が経つ。

先週、かかりつけの歯医者さんで定期検診を受けた。クリーニングを終えた子供たちがピカピカになった歯を嬉しそうに見せ、思わずこちらも笑顔になる。小さな幸せが溢れる瞬間だ。

鏡に映る、アメリカで詰め替えてもらったクラウンを見ると、あの時の緊張と不安、何度も心が折れそうになった日々が鮮明に蘇る。そして同時に、今こうして何気ない日常を穏やかに送れていることのありがたさを強く感じるようになった。

あの経験があったからこそ、今の幸せがより深く感じられるのだと思う。

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