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truthpenguin
【日本史9】明治史備忘録48(露清密約・東清鉄・租借地提供・康有為・梁啓超・戊戌の変法・袁世凱・清留学生・東亜同文会・中国語転用)
①1896年(明治29年)6月に李鴻章はロシアの外務大臣アレクセイロバノフと大蔵大臣セルゲイウィッテと露清条約を結んだ。
満州を横断してウラジオストクからシベリア鉄道に接続する鉄道敷設権を認めた。
②ロシアは東清鉄道の敷設権を獲得した。日本がロシアか清の支配地に侵攻した際に共同で戦う軍事同盟でもあった。
③清は日本に支払う賠償金を確保するために西洋諸国に借金をした。各国に租借地を提供した。イギリスは広州から上海、フランスは江南の沿岸、ドイツは青島のある膠州と天津を租借した。
④満州の各地はロシアの租借地となった。旅順に大規模な軍港と要塞が建設された。
⑤光緒帝は李鴻章を北洋大臣から解任して康有為や梁啓超といった若い官僚の改革運動のサポートをした。主に日本の明治維新をモデルとして憲法制定や議会設置を行った。
⑥清を専制君主政から立憲君主政の国にする事を目指した。これが戊戌の変法だ。変法自強とも云う。光緒帝の後見人の西太后を筆頭とした保守派たちの妨害にあい改革運動は失敗した。
⑦康有為と梁啓超たちは日本に亡命した。李鴻章の部下の袁世凱は西太后に近づき李鴻章に変わり淮軍と北洋艦隊を獲得した。袁世凱は清政府の実力者となった。
⑧1896年(明治29年)以降は日本への留学生は増えていった。西園寺公望は積極的に清の留学生を受け入れた。教育者であり柔道の父でもある加納治五郎は日本語学校を創設した。
⑨貴族院議員で近衛文麿の父である近衛篤麿も同様に清の留学生を受け入れた。アジア主義団体の東亜同文会には政治家の江藤新作、副島種臣、昭和初期に首相となる犬養毅、東洋史学者の内藤湖南がおり率先してサポートをした。
⑩清からの女子学生は元宮中女官の下田歌子が1899年(明治32年)に創設した実践女学校(実践女子大学)が主な受け入れ先となった。
⑪明治期につくられた多くの和製漢語である科学、哲学、精神、議会、議員、内閣、人民、社会主義、経済、金融、投資、銀行、電話、電報、温度、質量といった言葉は中国語に転用されて現代中国語にも定着している。
■参考文献 『1冊でわかる明治時代』 大石学 河出書房新社
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