【歴史概要60】自由州・奴隷州・ミズーリ協定・カンザス・ネブラスカ法
①アメリカ合衆国の北部と南部は産業構造が異なっていた。新大陸に移民してきたピューリタンたちは初めは農業をしていた。
②人口が増えてくると農業だけでは生活が立ち行かなくなり北部では商工業が盛んになり南部ではタバコや綿花、米などのプランテーションが奴隷を使って行われていた。
③北部は奴隷制に反対する人々が多かった。北部の諸州では奴隷制の廃止は実現されていたが、南部の綿花プランテーションでは奴隷が労働に不可欠だった。
④歴代の大統領はこの問題から州の対立が激化する事を心配しており黒人奴隷を故郷のアフリカに戻すという事を真面目に考えていた人物もいた。実際1820年代から解放された黒人をアフリカに帰国させる運動が始まり、周到な準備の上で1847年にリベリア共和国を建設した。
⑤しかし合衆国内では奴隷制をめぐる対立が激化した。1820年にミズーリ準州が州に格上げされるときに奴隷州と自由州に関する妥協が成立した。これがミズーリ協定である。
⑥内容はミズーリ州は奴隷州にして以後北緯36.5度以北のルイジアナでは奴隷州を認めないというものであった。当時奴隷州と自由州の数がそれぞれ11でミズーリ州が奴隷州になるとバランスが崩れる事が懸念されていた。
⑦この時はマサチューセッツからメイン州を分離させて自由州として新しい州とすることでそれぞれ12州となりなんとかバランスを維持した。
⑧1831年にヴァージニア州で起きたナット・ターナーの蜂起で約60人の白人が殺害された。プランターたちは衝撃を受け逃亡奴隷などの取り締まりを厳しくした。白人の解放論者のギャリソンは週刊誌「解放者」を発行し支持を集めた。
⑨黒人のモーゼと云われたタブマンは逃亡奴隷を助けた。西部の開拓は進行していったが西部の奴隷制も問題になっていった。1852年に出版されたストウ夫人の『アンクル・トムズ・ケビン』は評判を呼んだ。
⑩1854年にミズーリ川とロッキー山脈に挟まれた地域でカンザスとネブラスカの新州が成立するにあたって自由州か奴隷州かを住民投票で決める法律ができた。これがカンザス・ネブラスカ法である。共和党の誕生のきっかけともなった法律である。
■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社
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