【歴史概要19】第3回十字軍・アイユーブ朝・マムルーク朝
①セルジューク朝の後継王朝が12世紀になると各地に成立する。シリアにできたザンギー朝の君主ヌールッディーンはダマスクス政権を滅ぼし十字軍国家に圧力をかけ続けた。またエジプトのシーア派政権であるファーティマ朝にも軍を送り支配下にいれた。
②サラーフ・ウッディーン(サラディン)はクルド人でありイラク北部ティクリートで生まれたが一族の失敗でティクリートを追われザンギーの保護を受けヌールッディーンの職責を果たしていた。
③1163年にエルサレム王国(十字軍国家)はファーティマ朝に攻撃を仕掛けた。ヌールッディーンはエジプト侵攻のチャンスとみて軍隊を派遣した。ファーティマ朝は敵であったエルサレム王国と連携しザンギー朝の軍隊を倒した。
④1167年にザンギー朝による第2回のエジプト遠征が行われた。サラディンはアレクサンドリアの守りを任され、ファーティマ・エルサレム連合軍と戦ったがエジプトから撤退する事となり失敗に終わった。
⑤1168年になるとファーティマ朝とエルサレム王国との関係が悪化しエルサレム王がエジプトを攻撃する。ファーティマ朝はヌールッディーンに支援を要請し3回目のエジプト遠征を行った。
エルサレム王は戦わずして撤退しサラディンらはカイロに入りエジプトを占領した。
⑥1169年にサラディンはアイユーブ朝を樹立し、1171年に後継者がないまま滅亡したファーティマ朝に代わることとなった。ヌールッディーンは討伐軍を送るが途中で病没した。こうしてサラディンはイスラーム世界の王者となった。
⑦サラディンはファーティマ朝時代にシーア派からスンニ派に復帰する。アッバース朝の権威は見る影もなくなっていたため、エジプトがイスラーム世界の中心となった。カイロに強力な城壁が建設され、十字軍への対策も強化された。シーア派の教学の中心だったアズハル大学もスンニ派の学院となった。
⑧サラディンは1174年にシリアを併合してエルサレム包囲網を完成した。1178年のヒッティーンの戦いでエルサレム王国を破った。これによりイスラーム勢力がエルサレムを回復した。
⑨この奪還をきっかけとして教皇グレゴリウス8世が呼びかけ第3回十字軍が結成された。
イングランドのリチャード1世、フランスのフィリップ2世、神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世などが集まった。
フリードリッヒ1世はルーム・セルジューク朝と対決したがサレフ川で水死する事によってドイツ軍は解散した。
リチャード1世とフィリップ2世は本国で戦っており犬猿の仲であった。それでも第3回十字軍はサラディンに占領されているアッコンを包囲し1191年に回復した。
⑩1192年にエルサレム王国は復活した。しかし寄せ集めの司令官らの対立からドイツ兵が撤退し、フランスのフィリップ2世は病気を理由に帰国した。イギリスのリチャード1世とサラディンの戦闘が繰り広げられたが休戦協定が締結された。
⑪エルサレムはイスラーム教徒の管理下に置き、キリスト教徒の巡礼は受け入れるという内容を確認してリチャード1世は帰国した。ここに第3回十字軍は終焉した。
アッコンをはじめとして地中海岸の都市などは領有でき北イタリア商人達による地中海貿易は1世紀以上にわたり続く事となった。
⑫サラディンは博愛精神のあふれた人物でありキリスト教徒の捕虜を寛大に扱った。1193年にサラディンは亡くなり、13世紀初頭のアイユーブ朝のもとにエジプトは安定期を迎えた。13世紀半ばの後継者問題をきっかけに1250年にマムルーク朝が樹立した。
⑬この地に残った騎士たちがドイツ騎士団、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団などを組織している。ドイツ騎士団は後のプロイセンの成立に大きな役割を果たした。
■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社
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