【日本史7】鎌倉史備忘録6
鎌倉時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①1159年(平治元年)に起きた平治の乱は
源氏の没落だけでなく院政派や摂関家の没落でもあった。
平氏は武士も公家もライバルがいない状態であった。
②平清盛は正三位となり武士として公卿に列した。
参議としての政務への参加権も会得した。
③この頃は主に二条天皇や後白河上皇、藤原摂関家によって
主導された。後に二条天皇による親政が本格化していった。
④後白河上皇は法住殿という地域開発に取り組むなど独自の動きをした。その北側には平家の主要な拠点の一つである六波羅(現在の京都市)が展開していった。
⑤二条天皇が1165年(永万元年)に亡くなると後白河上皇は清盛と提携した。上皇は摂関家の所領を娘の盛子に継がせ、清盛には1167年(仁安2年)に太政大臣の地位を与えた。
⑥清盛は娘である徳子を後白河の息子で即位した高倉天皇の
中宮とした。こうして清盛は天皇の外戚となり権威を高めた。
⑧地方で清盛は各地の武士団を地頭に任命し畿内や
西国の武士を家人として家子・郎党を形成していった。
大宰府(福岡県)の次官にも任じられて影響力を強めていった。
中国・宋との日宋貿易を自主的に推進していった。
⑨1177年(治承元年)に権力を独占する平氏たちに反発した後白河の近臣・藤原成親、西光、僧侶俊寛などが平家打倒を目論んだとして処刑された。これが鹿ケ谷の謀議である。
⑩1178年(治承2年)には徳子と高倉天皇の間に皇子が生まれたが平氏と後白河の関係は改善しなかった。
軍勢を率いた清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉し、多くの貴族たちの官職を奪い処罰を行った。
⑪1180年(治承4年)に安徳天皇が即位すると清盛は天皇の外祖父となった。これが高倉院政であり実際は平氏政権であった。
⑫しかしこの強引さは反対勢力を拡大させ権力の急速な崩壊となっていく。平氏政権は鎌倉幕府以前の最初の武家政権と云われるが朝廷への依存が大きかった。平氏と朝廷の関係は同時期のヨーロッパ圏の教皇権と王権の対立と似ている事などを学びました。
■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社
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