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【歴史21】スイス史備忘録24(黄金同盟・梯子作戦・三十年戦争・グラウビュンデン改革派・ヴァルテリーナ・イェルクイェナチュ)

スイス史の学習内容を深めていきます。

①スイス改革派のなかでチューリヒとベルンがジュネーヴと
1584年に保護同盟を成立させて連携を強化した。

②スイスのカトリック邦は1586年に黄金同盟を結んだ。翌年に黄金同盟はカトリックのサポートに力をいれていたスペインハプスブルク家のフェリペ2世と同盟関係を築いた。

③1602年にジュネーヴの領有を目指すサヴォワ公はエスカレード(梯子作戦)と呼ばれる奇襲を仕掛けた。ジュネーヴの市民の抵抗により失敗したのでサヴォワ公はジュネーヴ支配を諦めた。ベルンに奪われたヴォー地方を放棄した。

④1618年にハプスブルク家のボヘミア国王のフェルディナントが支配領域内の人々にカトリック信仰を義務づけた。ボヘミアの人々は反発して改革派はプラハの市庁舎で皇帝代理人を窓の外に放り投げる事件が起こった。

⑤こうしてボヘミアの人々が反乱した。

帝国内の諸侯は旧教と新教で争う事になった。スペインがカトリック側にデンマークとスウェーデンがプロテスタント側に加勢して三十年戦争に発展した。

⑥終盤ではカトリック国のフランスがプロテスタント側に加勢するなど宗教戦争としては破綻していた。盟約者団は各国に傭兵を派遣していたので戦争には直接参加せずに攻撃を受けた場合に自衛する武装中立の立場をとろうとした。

⑦グラウビュンデンは1471年以来3つの同盟による連合体で宗教選択はそれぞれの同盟内の共同体に委ねられていた。17世紀には改革派が2/3と主流派になっていた。

⑧カトリック住民の多かったヴァルテリーナは改革派の指導者たちが強引に新教化を推進しようとしていて旧教住民の反発を招いた。

⑨ヴァルテリーナの改革派たちは1618年にカトリックの司祭や有力者を死刑にした。カトリック住民はスペイン派と結びついて1620年に改革派住民たちを虐殺した。これが聖なる流血である。

⑩スペイン軍がヴァルテリーナの谷を占領して自治政府をつくらせた。チューリヒとベルンは改革派を助けるために軍隊を派遣したが谷の解散には失敗した。オーストリア軍勢が十裁判区同盟の大部分とクール、マイエンフェルトなどを占領した。

⑪ハプスブルク家はドイツの各地に軍隊を送り込むルートを求めていたのでヴァルテリーナ峠道を抑えた。

グラウビュンデン改革派は元牧師のイェルク・イェナチュの指導でフランスと交渉した。

⑫1624年にオーストリアに占領された土地とヴァルテリーナの解放のためにフランス軍を介入させた。介入後はフランスはヴァルテリーナをグラウビュンデンに返還しなかった。1629年にフランス軍、1631年にオーストリア軍が再度侵攻してきた。

⑬イェナチュはハプスブルク家と密約を結んで1637年にフランス軍を追放した。1639年にヴァルテリーナの返還を実現した。イェナチュはスペインのハプスブルク軍に峠道の通行を許可した。

■参考文献 『1冊でわかるスイス史』踊 共二 河出書房新社

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