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【歴史概要130】ロシア革命・三月革命・二重権力(ソヴィエト/臨時委員会)・十一月革命

①第1次世界大戦の長期化でロシア社会は混乱となり
庶民不満は抑えられなくなっていた。1917年となると
日露戦争末期以上の不穏状態が全国拡大した。

②2月23日にペトログラードで国際婦人デーのデモが始まりこれに呼応して全市はゼネスト状態となった。鎮圧をしていた兵士も反乱軍に参加するという状態となった。2月27日に労働者や平氏の利害を代弁する機関としてソヴィエトが再結成された。

③ソヴィエトと臨時委員会からなる状況を二重権力時代という。3月2日に臨時政府が成立してニコライ2世は退位した。300年続いたロマノフ朝の歴史は終焉しツァーリ専制体制は崩壊した。これが三月革命である。

④ツァーリ一家は革命政府によって自由を奪われた。8月にシベリアへ送られた。十一月革命後にはエカチェリンブルクに移されていたがソヴィエト権力によって1918年7月に皇后と5人の子どもとともに処刑された。

⑤三月革命の段階ではペトログラードのソヴィエトはメンシェヴィキ(ブルジョワや中産階級が支持/少数派)が指導権を握っていた。

⑥臨時政府が革命政権を守るためという名目で戦争継続を発表するとソヴィエトは平和のための共同行動をとる事を世界に呼びかけた。ソヴィエトと臨時政府の違いが明らかになっていった。

⑦1917年4月にボリシェヴィキ(労働者や農民が支持/多数派)のリーダーであるレーニンが亡命先のスイスから帰国した。

⑧四月テーゼを発表して「すべての権力をソヴィエトに」と主張した。二重権力状態を批判した。しかしこの段階ではボリシェヴィキ内の基本認識に留まっていた。

⑨6月となり東部戦線で革命ロシア軍の攻撃が始まった。ドイツ軍に圧倒されてソヴィエトのアナーキストを中心とした勢力が臨時政府やソヴィエト中央に対してデモを行った。

⑩このデモは鎮圧されたが責任はボリシェヴィキにあるとしてボリシェヴィキに弾圧が及んだ。これが七月事件である。レーニンはフィンランドに身を隠した。レーニンは平和的ではない方法で権力を確保する方針を定めた。

⑪臨時政府は東部戦線での反抗に失敗した事と革命派を弾圧した事で多くの支持者を失って弱体化した。

8月末に最高総司令官のコルニーロフ将軍が革命派を追放して保守派の支持を集めていった。

⑫臨時政府の首相であった社会革命党(エスエル/ナロードニキの継承政党)のケレンスキーはソヴィエトのボリシェヴィキに協力を要請した。コルニーロフの指揮下の兵士たちは革命派に説得され革命派に寝返った。コルニーロフは失脚した。

⑬勢力が拡大したボリシェヴィキでは、レーニンが武装蜂起の方針を中央委員会に提出して可決された。臨時政府はボリシェヴィキを抑えるために10月24日(グレゴリウス暦11月6日)に機関紙の印刷所を襲った。

⑭それによって決起したボリシェヴィキは臨時政府の置かれていた冬宮を占領し臨時政府は崩壊した。ソヴィエトへの権力移譲が宣言された。

⑮全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会で「平和に関する布告」「土地に関する布告」「権力に関する布告」が採択された。

全交戦国に無賠償・無併合の講和を呼びかけて地主から土地を没収した。

⑯そしてレーニンを議長とする人民委員会が設立された。これが十一月革命である。

冬宮から逃れたケレンスキーはメンシェヴィキとエスエルをまとめてソヴィエト政府に反乱を起こしたが鎮圧された。農民の支持を得てソヴィエト政府が勝利をし強化されていった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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