①ピピン3世が亡くなりカールは兄弟でフランク王国を分割統治していた。
弟のカールマンの死後、771年からカールが全フランクを束ねた。
②ザクセンヘの諸攻撃でその地方をカトリック化しイベリア半島ではイスラーム教徒と戦いイタリア半島に進出、東方ではスラヴ人やアヴァール人と戦って領土を拡大させた。
③ローマ教皇レオ3世は聖像破壊令問題で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と対立していたためカールを世俗の保護者としてローマ皇帝の冠を与えた。ビザンツ帝国とカールの関係は悪化していたが後にビザンツ帝国はこれを容認した。
④476年に西ローマ帝国は滅亡したが、カール大帝の戴冠により西ローマ帝国は復活した。キリスト教を軸としたローマ人ではなくゲルマン人を主体とした新世界がここに形成された。これがヨーロッパ世界の礎となった。
⑤中央集権的な支配は難しかったので直属の伯(グラーフ)を置いて巡察使を派遣して監視させた。そして自らも有力者と友好関係に努めていった。首都というものは存在しなかった。
⑥官僚育成の観点から教会や修道院に付属の学校を置いた。そのような学校の中心がアーヘンの宮廷学校であった。カロリング・ルネサンスといわれるラテン文化の復興運動が起こった。
⑦カール大帝の死後に第3子のルードヴィッヒ(ルイ1世)が王国を継承した。ルイ1世の子どものロタール、ピピン、ルードヴィッヒと2番目の妃の子であるシャルルの対立が起こった。
⑧国王のルードヴィッヒ(ルイ1世)と次男ピピンが亡くなると長男のロタール(後の中部)とルードヴィッヒ(後の東部)とシャルル(後の西部)の連合が対立した。
⑨842年にはルードヴィッヒとシャルルがアルザス地方のストラスブールで会見をして反ロタールを表明している。
誓約文は古語ドイツ語とフランス語で書かれている。これが後に続くドイツ・フランス国境問題の端緒とも云える。
⑩843年に3者はヴェルダン条約を締結してシャルルが西フランク、ロタールが中部フランク、ルードヴィッヒが東フランクを継承する事を約束した。フランク王国は3分割した。
⑪855年にロタール(中部)が亡くなりシャルル(西部)とルードヴィッヒ(東部)が戦った。
870年のメルセン条約でロタール(中部)の領土の北部を東西に分割した。ここに現在のドイツ・フランス・イタリアの原点が形成された。
■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 関 真興 日本経済新聞出版社