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【歴史概要29】ユーゴスラビアの話

①第1次世界大戦後、東欧の南部(バルカン半島)にセルブ・クロアト・スロヴェーヌ王国という国ができた。不安定な要因を抱えた国だったので国王は調停するためユーゴスラビア王国と改称して南スラブ人の統一を強調した。

②この問題は不安定なまま第2次世界大戦になり国土はナチス・ドイツにより占領された。独ソ戦が始まりユーゴスラヴィアではティトーの主導するパルチザンが活躍し民族の英雄になっていく。

③ユーゴスラビアはナチスから解放され、王政を廃して社会主義を採用した。国名はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称した。

④ティトーはソ連の手を借りずに祖国を解放したという自負があった。なのでソ連とは対等な立場を要求したが1948年にスターリンは認めずソ連のコミンフォルムはユーゴスラビアを除名した。

⑤国内は自主管理体制を作り外交では東西どちらにも属さない非同盟主義を貫いた。ソ連からの防衛のために軍事訓練を義務化し各家庭に武器の所持を認めたが、後にこれがユーゴ解体後の内戦激化となっていく。

⑥ユーゴスラビアのベースは7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1つの国家である。

⑦6つの共和国とはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアである。

⑧5つの民族とはスロベニア人、クロアチア人、モンテネグロ人、セルビア人、マケドニア人だが、ムスリム人という範疇もある。

⑨4つの言語はスロベニア語、セルビア語、クロアチア語(セルビア語に近い)、マケドニア語である。3つの宗教はカトリック、ギリシア正教(セルビア正教)、イスラーム教である。2つの文字はラテン文字とキリル文字である。

⑩ティトーが1980年に亡くなり冷戦の脅威がなくなるとともに
ユーゴスラビア内の民族・宗教問題が顕在してきた。

⑪きっかけは1987年にミロシェヴィッチ(セルビア共和国初代大統領)がセルビア共和国内のアルバニア系住民が多いコソボ自治州を訪問しセルビア系住民にサポートした事である。

⑫セルビア人至上主義の傾向はミロシェヴィッチの評判を高めてコソボ自治州の自治権を取り上げ、アルバニア系の活動家を弾圧するようになった。

⑬ミロシェヴィッチの政策に危機感を持った他の民族は独立傾向を高めていく。1991年にクロアチアとスロベニアが独立を宣言した。セルビアはこれに反対しセルビア軍が侵攻したが、両国は独立を果たした。また同年マケドニアも独立をした。

⑭クロアチア内にはセルビア人が多く今度は彼らがクロアチアからの分離独立を主張した。抵抗してクロアチア人が攻撃を加えるとセルビア人はセルビア共和国のサポートを受け内戦は長期化した。この対立は1995年に収拾された。

⑮1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言したがここにも独立に反対するセルビア人がいて、セルビア共和国は軍隊を派遣してサポートした。この地域はムスリム人、セルビア人、クロアチア人が混在していた。セルビア共和国が絡み状況は複雑化していった。NATO軍が介入する事で1995年に和平が実現した。

⑯1999年にはコソボ問題が再燃した。最終的に2008年にコソボの独立が承認されたが国際的には評価が分かれている。2016年7月時点では113カ国が承認している。

⑰セルビア主義は第1次世界大戦でもユーゴスラビア問題でも端緒となっている。

バルカン半島のセルビア政治家・活動家の動きは際立っている。

⑱中欧のチェコスロヴァキアの独立は平和的だった。工業国と農業国であり経済基盤が違い、集権か連邦制かで多くの対立があった。最終的には1993年にチェコとスロヴァキアに分離した。

これがビロード離婚である。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 下』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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