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【日本史9】明治史備忘録50(第3次伊藤内閣・西ローゼン協定・憲政党結成・隈板内閣・尾崎行雄・憲政本党・第2次山縣内閣)

①松隈内閣の次は第3次伊藤内閣(7代目)が成立した。伊藤は議会に民権派の支持を得る目的で板垣と大隈に入閣を打診したが実現しなかった。そのため藩閥の有力者たちで構成された。

②伊藤は満州でのロシア勢力拡大を懸念していた。

外務大臣の西徳二郎と駐日ロシア公使のロマンローゼンと交渉して西・ローゼン協定を結んだ。

③日本は満州でのロシア活動を認める代わりに日本の韓国での活動をロシアが認めるという内容だった。

④伊藤は政党内閣が定着すべきと考えており自らを党首とする政党をつくって議会の主導権を握って地租の増微を実現しようとした。山縣有朋は超然主義の維持を主張して政党結成に反対した。

⑤進歩党と自由党は1898年(明治31年)6月に合併をして憲政党を結成して衆議院の2/3を占める勢力となった。議会と長州閥で孤立した伊藤は約5ヵ月で首相を辞めた。

⑥その後1898年(明治31年)6月に大隈重信(8代目)を首相とした日本で初の政党内閣が成立した。内務大臣は板垣退助であり陸軍大臣は長州閥の桂太郎、海軍大臣は薩摩閥の西郷従道だった。

⑦他の閣僚はすべて憲政党の議員だった。各省庁の次官や地方の知事は憲政党の関係者が任命された。この政権は大隈と板垣の名前から隈板内閣と云われる。

⑧8月に文部大臣の尾崎行雄が教育関係者の会合で「もし日本が共和政であれば三井や三菱のような企業家が大統領候補になってしまう」という趣旨の演説を行った。これは仮定の話であった。

⑨自由民権運動に批判的だった『東京日日新聞』は天皇が統治する日本の政治体制を否定するのは不謹慎と報じた。尾崎が大臣を辞任して後任をめぐり憲政党は分裂する事態となった。

⑩隈板内閣は4ヵ月で崩壊した。

大隈たちの旧進歩党系は憲政本党と改名した。隈板内閣が総辞職した後は山県有朋(9代目)が再度首相となった。

⑪山縣は板垣、星亨たち憲政党との連携をはかったが、閣僚ポストをめぐる協議がまとまらなかったので政党に所属しない藩閥の有力者が大部分を占めた。

⑫第2次松方内閣からの懸案であった増税が断行されて山縣を筆頭とする藩閥の有力者は官僚の選任について定めた文官任用令を改正し高等文官試験の合格者のみを勅任官に採用するよう定めた。

■参考文献 『1冊でわかる明治時代』 大石学 河出書房新社

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