平安時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①藤原頼通(よりみち)は1074年(延久6年)まで生きた。
83歳と長命であった。頼通の養女であった嫄子や寛子は後冷泉天皇(70代目)の皇后であったが男子が生まれなかったので外戚にはなれなかった。
②1068年(治暦4年)に後冷泉天皇が亡くなると尊仁親王が即位して後三条天皇(71代目)となった。腹心であった能信が即位前に亡くなって後三条天皇は藤原氏の力に頼らず自ら政治を行った。
③村上天皇の孫にあたる源師房を右大臣に就けるなど源氏を重用した。家柄に関わらず学識のある人間も重用していた。有名なのは18歳で官人登用試験(公務員試験)である方略試に合格した大江匡房(まさふさ)である。
④大江家は優秀な人材を輩出して子孫の大江広元は鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝の側近となった。匡房は後三条天皇が新設した記録荘園券契所が任された。
⑤平安時代後期になると各地の貴族や寺社が多数の荘園をつくった。公田を自由に荘園に組み入れる事もあった。
後三条天皇は記録荘園券契所を通じて1045年(寛徳2年)以後にできた荘園を廃止させた。
⑥天皇直属の記録荘園券契所は審査は厳格であった。源氏の氏神である八幡大神を祀る石清水八幡宮(京都市八幡市)には34ヶ所の荘園があったが13ヶ所が廃止された。
⑦大規模な荘園整理は藤原氏をはじめとする有力貴族の力を削いだ。天皇個人の財力を強化する意図があった。廃止された荘園の多くは朝廷に没収された。
⑧後三条天皇は税収を正確に把握するために枡や秤を全国的に統一した。後三条天皇が自ら計量して1072年(延久4年)に定めた宣旨枡は室町時代まで使われた。
⑨宣旨は天皇の命令を調達する公文書のことで詔よりは発行の手続きが簡単であり平安時代以降によく使われた。
⑩宣旨枡を導入した直後に即位から5年目に後三条天皇は退位した。息子の白河天皇(72代目)を即位させて、その異母弟の実仁親王を皇太子弟に定めた。翌年に後三条上皇は病で亡くなった。
⑪後三条天皇が早く退位したのは退位後に後見人として実権を
握ろうとしたためとされた。藤原氏の介入を避けて自身の血筋を
安定させるためだったとも云える。
■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社