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【日本史9】明治史備忘録13(吉田松陰・佐久間象山・大院君・征韓論・内政派・外征派・明治六年の政変)

明治時代の学習を深めていきます。

①新政府の大半は尊王攘夷派の志士であった。長州藩の儒学者の吉田松陰や松代藩の佐久間象山たちはアジア諸国統一により西洋諸国への対抗を念頭においていた。これらの考えは新政府首脳のなかで意識されていた。

②朝鮮国王であった高宗の父の大院君のもとで朝鮮は日本と同様に鎖国対策をとっていた。日本との外交関係が途絶えた。朝鮮が西洋諸国の支配下に入る前に朝鮮制圧をするという意見があったが実行はしなかった。

③朝鮮王家は清の皇帝に臣従する立場であり日本は理解していた。朝鮮は西洋制度を取り入れて改革を進める日本を西洋諸国と同様の夷敵と捉えた。朝鮮南部の釜山にあった倭館を大日本公館と改称しようとしたので朝鮮関係が悪化して交易が停止した。

④日本による釜山公館への物資輸送を朝鮮側が妨害して新政府内は朝鮮反発が高まった。1873年(明治6年)5月に釜山の日本公館の前に日本は「無法之国」と記した侮蔑書が貼られた。

⑤留守政府のメンバーだった板垣は朝鮮出兵を主張した。西郷隆盛が使節として8月に朝鮮に向かい交渉決裂した場合に朝鮮出兵するという方針が確認された。これが征韓論である。

⑥日本と近隣アジア諸国を一体と考えて明治維新といった近代改革を近隣諸国に広める意識があった。武士階級特権を解体した新政府への不満を海外にそらす目的もあった。

⑦西郷派遣が決定した9月に岩倉具視らの遣欧米使節団が帰国すると状況は変わった。岩倉、大久保、木戸らは「内政の充実を優先すべきで外国を攻めている場合でない」と主張した。

⑧明治天皇の判断で西郷の朝鮮派遣は見送られた。朝鮮派兵構想をしていた西郷、板垣、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平といった留守政府のメンバーと600人の官僚と軍人は辞職した。これが明治六年の政変である。

⑨外征派は政府を批判する立場をとる事となった。木戸や大久保といった長州・薩摩藩出身者と板垣、後藤、江藤ら土佐・肥前藩出身者の対立が一因となったと考えられている。肥前藩の大隈は政府に残り続けた。

■参考文献 『1冊でわかる明治時代』 大石学 河出書房新社

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