【歴史概要82】シャクシャインの戦い・商場知行制・場所請負制度・クナシリ・メナシの蜂起
①松前藩は寒冷地のため米を作れなかったので諸藩のなかで唯一石高が存在しなかった。アイヌ交易と松前(福山)、函館、江差の港に出入りする商船から税金をとって収入を得ていた。
②1604年(慶長9年)に松前藩は家康からアイヌとの交易の独占権を得た。アイヌを支配するためにアイヌの住む蝦夷地と和人の住む和人地を分けた。アイヌに日本語や金銭の使用、松前藩以外の和人との交流を禁止した。
③交易は商場と呼ばれる場所で行われた。松前藩主は家臣に知行として商場でアイヌと交易する権利を与えた。この交易収入は家臣のものとなった。この主従交易制度が商場知行制である。
④松前藩はこの商場知行制を利用して他の商人を排除して流通を仕切った。アイヌ交易の主導権は松前藩が握ることとなった。
⑤1669年(寛文9年)6月に蝦夷地南側全域のアイヌが日高地方シブチャリの首長シャクシャインの反松前の呼びかけに応えた。そして蜂起を開始した。
⑥シャクシャインの戦い(寛文蝦夷地蜂起)は近世最大のアイヌの反乱であった。松前藩による交換レートの悪化と暴力的強制への不満が爆発した帰結であった。
⑦交易船の船頭や金堀り、鷹匠などが倒された。和人の犠牲者数は273人or355人とも云われている。蜂起軍は松前へ行軍した。途中で松前軍と交戦する事となった。
⑧松前藩は津軽藩の協力を得て鉄砲で武装していたがアイヌ軍のゲリラ戦法により戦いは長期化していった。
⑨交易途絶で財源が失われるのを危惧した松前藩は同年の10月に和睦の名目でシャクシャインを誘い謀殺した。そしてアイヌ軍は瓦解し鎮圧された。その後アイヌに対する松前藩の締めつけは加速した。
⑩各地の首長は松前藩への服従を誓う起請分を提出させられた。定期的な藩主への越権、法度の伝達を強要された。ただ交易レートは塩鮭100匹に対して1斗2升の米俵1俵に改善された。
⑪17世紀末期になると松前藩の財政は悪化した。18世紀には商場知行制度が廃止されて商人が支配するようになった。これが場所請負制度である。
⑫かつての商場は場所、場所を経営する商人は場所請負人と呼ばれた。鱒船や鮭船の操業許可を受けて各場所に居住するアイヌを強制的に酷使した。アイヌは交易狩猟者から漁業従事者、道路開設の人夫や馬子などの労働者となった。
⑬漁業の出稼ぎの和人の年間の給与は7~8両だったがアイヌは2両1分であった。
場所請負人は漁場でアイヌたちを監督する和人の番人を雇った。
⑭番人のアイヌへの暴行、未婚者の増加、堕胎の強要、和人が持ち込んだ天然痘や梅毒の流行で江戸時代後半にはアイヌ人口は激減した。
⑮1789年(寛政元年)5月に飛騨屋久兵衛が場所請負人として支配していた地であるクナシリからメナシにかけて130人のアイヌが運上屋や番人を襲撃した。これがクナシリ・メナシの蜂起(寛政蝦夷蜂起)である。
⑯アイヌの首長の説得と松前藩により蜂起は鎮圧された。首謀者は処刑された。
取り調べで横暴ぶりが明らかになった飛騨屋は場所請負人の権利をはく奪された。これが最後のアイヌの蜂起となった。
⑰その後、クナシリとメナシの地域のアイヌは完全に和人の支配下となった。アイヌのイヨマンテ(神送り)などの儀式は禁止された。政府による和人との同化政策が推進されていく。
⑱蝦夷地は明治になり松前藩から箱館県となった。明治政府は開拓使を設置して名称は北海道となった。
⑲明治になり蝦夷地は松前藩から函館県となった。明治政府は開拓使を設置して名称は北海道となった。維新で仕事を失った士族や平民が屯田兵として入植した。開拓興農を目的とした屯田兵村が北海道の内陸部や北部につくられた。
⑳1899年(明治32年)に明治政府は北海道旧土人保護法というアイヌ関連の法律を制定した。
アイヌ保護を目指した法律だったが実際は伝統的な狩猟・漁猟を禁止して農耕を強制し、日本式教育を徹底した。この法律は1997年(平成9年)まで続いた。新法ではアイヌの自立と人権保護、文化振興が目的とされている。
■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 小和田哲男 日本経済新聞出版社
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