読書:「野生の科学」中沢新一

※ひたすらに長文です。

突然ですが、自分にとっての「バイブル」ってありますか?

「野生の科学 = La Science Sauvage /中沢新一」

これは自分にとってのバイブルだと、自信を持って言える本です。
バイブルは聖書、聖典のことですが、それが転じて「人生の指針として何度も読み返す一冊の本」という意味もあるそうです。聖書は、それを信じる人達がその理想や教義を知り、自分の心や人生の支えとしてずっとそばにあり続けるものだと思います。今も多くの人が、その意味するところや教訓を今に再投影しながら解釈し続けている、バイブルはそんな懐の深い本なのだろうなと想像します。

自分は特定の宗教を信仰しているわけではないですが、きっとこの本は心の支えとしてゆっくり噛み締めながら、少しずつ読み解いていくことになるんだろうなあと思っています。そういう意味で、自分にとってバイブルなんです。ちなみに、二度目を読み終えたけれど、難しくて三割も理解できていません笑

例えば、この本の冒頭から少し引用してみます。

社会は人間どうしの間に「交差(キアスム)」空間ができているときにはじめて、健全に作動しはじめます。そして人間どうしの間に生まれるこの交差空間は、原始的なトポスのなりたちをしています。贈与というのは、まさにこのトポスの中で活動する交換を意味していますから、トポスが壊されてしまうと、贈与的な心の働きも停止してしまいます。経済学がインターフェイス構造をもつ科学に変化を起こし、資本主義経済が自分の外部に通路を開いていく力をもった「不思議な環」を自分の中に組み込む努力をおこなわないかぎり、市場と社会が対立しあい、社会が市場に呑み込まれていってしまう事態を、私たちは避けようがありません。そしてすべての環境問題も、そこから発しています。
現代数学と農業は、3・11の以後に私たちの心の内部で起こっている奥深い変化を象徴しています。近代世界はデカルトの代数幾何学を重要なきっかけとして開かれたと言われます。ひょっとすると、二十一世紀以後の世界は農業世界に去っていった数学者、グロタンディークの代数幾何学をきっかけとして開かれた、と言われることになるかも知れません。

のっけからこんな調子です。
こんなのはまだ優しくて、商売や暮らしや芸術や人間関係の話をしていたはずなのに、ふと気づいたら、あっという間に数学や神話やまったくわけのわからない世界に飛んでいってしまって、もう手も足も目も声も届かなくなってしまって、そっと本を閉じて笑うしかない、という具合です笑

500ページ近いボリュームで、どこもかしこもこんな中身がびっしり詰まっているので、間をあけながらですが(二度目なのに)読むのに半年くらいかかってしまいました。三割も理解できていないことには自信があるけれど、それでも前に読んだ時よりも少しだけ中沢さんの言っていることがわかるようになったかもしれない、そういう気がしました。

この本を通して中沢さんは、「分離可能な世界」と「分離不可能な世界」を繋ぎ合わせるものが必要で、それはどんなものなのかということを、様々な、それはそれは様々な側面から伝えようとしているんだと思います。
この世界の理を理解するための道具である「科学」は、「分離可能な世界」を説明するために作り上げられてきたもので、「分離不可能な世界」を理解するためにはデザインされていない。「分離不可能な世界」を理解するためには、科学をバージョンアップする必要があって、その方法が「野生化」、そして野生化した姿が「野生の科学」なんだと言っている。
「分離不可能な世界」とは、大きくまとめてしまえば人間の「心」のことなんだと思います。けれど人間は、科学ができなかったそれを、理解したり記述したり具現化するための「別の方法」を持っていました。それは「宗教」や「芸術」や「貨幣経済や等価交換の生まれる前の交易」(カタラクシーと呼ばれるもの)です。

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この本と中沢新一さんのことを知ったのは2012年、そのころ好きでよく聴いていた「ラジオ版 学問ノススメ」というラジオ番組でした。毎週、いろいろな本の著者が先生として出演して、パーソナリティの蒲田健さんを相手にたくさん話をするという番組です。魅力的な人がいっぱいゲストに出てきて、この番組を聴いて読んだ本もたくさんあります。
この本を出版した直後に中沢さんが出演したのを聴いて、すごく心動かされたのを覚えています。(当時の番組は、番組のサイトでまだ聞くことができます。)

ちょうどその頃、自分は、元気がない時期でした。
2011年、年が明けて間もない2月に、住んでいた小さな一軒家が突然の火事で全焼してしまい、一緒に暮らしていた猫も死んでしまいました。当時、道北の小さな町で暮らしていたのですが、その日はマイナス30℃近い、とても寒い日でした。今朝まで家だったものの影が、ダイヤモンドダストをまとった雪あかりに浮かび上がっていたさまを、よく覚えています。
その数週間後、お世話になっていた方の突然の自死、そしてあの大地震。自分や周りやもっとたくさんの、いろいろな人達の痛みや喪失感が重なって、ずいぶんショックを受けていたような気がします。(そういえば新年早々に、長く付き合っていた人と別れたりもしたっけなあ笑)

2012年は、それがなんとなくずっと尾を引いていた頃です。

その頃自分は、小さな町で「地域づくり」とか「地域おこし」と言われるようなことをする会社で働いていました。「持続可能な暮らし」のようなものをふわっと夢想していて、それを形にできるのは農山村のようなところじゃないかな、という思いがあったから。けれど、目に見えることも、目に見えないことも、難しい問題がたくさんあるんだってことが、よくわかった。
いろんな人がやってきて、いろんな人が去っていくうちに、自分はどんな景色を見たいのか、だんだんわからなくなってしまった気がしていました。

そんなときにこの本は、自分が世界に感じていたことについて、道標をくれたような気がしました。行き先を見失っているときにそれを指し示してもらうような、色を失った世界に色がもどってくるような、そういう経験は、ある種の救いだと思います。少なくとも、あの頃の自分にとっては、救いでした。何を言ってるのかはわからないけど、何を言いたいのかはわかる気がする、そういう確信のようなものを感じて、読んだあと、もっといろんなことを考えられるようにならなきゃいけない気がして、(分野は違うけど)もう一度学校に行く決心をしました。

この本に出会わなければ、きっとそんな選択もしなかったと思う。だから、この本は人生を変えた本です。

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地域や社会、コミュニティと暮らし、環境や経済、そして宗教や芸術。
この本では、それぞれいろいろな方法を使って、いろんな話題に切り込んでいくのだけれど、結局それらはみんな同じ土台の上にある、という話に収束していきます。それは、人の「心」です。

この本を通じて何度も何度も出てくる「公式」があります。

「神話公式」というその数式は、出てくるたびにがんばって考えてみるのですが、さっぱり理解できません。なんかほんの少しだけわかったかもしれない!…という淡い手応えも、次に出現してくるときにはめためたに打ち壊されてしまいます笑

中沢さんは、とても有名な思想家です。そして、人類学者として宗教、とくに神話の研究をしてきた人でもあります。だから、人の営みの中にある神話的なものやロジックに、敏感に反応するんだと思う。

神話は、人間の心そのものを表したものなので、神話的である物事は、すなわち心の姿が投影されたもの、ということになる。だから結局この本は、心のことを書いているんだと感じます。

心が、初めから非対称性(≒分離する力)と対称性(≒統合する力)という相反したふたつの本質を抱えているということ。そしてその間を矛盾なく繋ぐ方法を、人ははるか古代から編み出してきたということについて、形を変えて何度も言っているんだと思います。

自分にとっては、この本はどこもかしこも静かな感動があふれているのですが、いくつかを抜き出してみます。
(え? 十分理解してるじゃないかって? いえいえ、少しわかった気がしたところだけ抜き出しているんです笑)

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ハイエクは市場の本質を、古代ギリシャ人の用いた「カタラクシー」の概念をとおしてとらえようとしましたが、古代人はその言葉で、市場というものが構造の違う二種類の交換論理でできている複合体であることを表現しようとしていたように、私には思われます。このシステムの境界または底の部分では、「敵を味方に変え」、外の存在を中に組み込んで「コミュニティーに入れる」ための交換が作動していますが、境界または底部を離れてシステムの内部に入っていくと、合理的な経済計算にもとづく交換がおこなわれる空間が広がっています。前者はねじれをはらんだ神話論理と同型の論理で動き、後者は線形的な思考が自在に活動できる空間をつくります。カタラクシーは複論理(バイロジック)を内包していて、その全体性が市場の本質をなしている、ということになるのではないでしょうか。
(中略)
近代に発達したカタラクシーとしての市場が見えなくさせてしまったものは、この複論理の構造です。市場の奥ないし底の部分では、対称性の論理で動くカタラクシーⅡが、たえまない作動を続けているのですが、それに支えられて第一種の交換活動をおこなう経済人には、そのことはまったく見えていません。
(中略)
モノである商品は、ひとつひとつ数えることができ、だから価格をつけることができます。つまり、カタラクシーⅠの空間を満たしているモノは、非連続な個体の集積にほかなりません。ところが、人間の心に発生する欲望は、連続した流れをなしています。心は自分になにかが欠如していると感じて、その「なにか」を欲望して、強いうねりを持った流動として、心の外の世界に向かいます。そして、外の世界になにかの対象を見つけて、これこそ自分の欲望していた対象であるといって、所有しようとしますが、いざそれを手に入れてみると非連続なその対象物は、けっして連続体である自分を充たし尽くすものでないことが、欲望にはすぐにわかってしまいます。

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ホモサピエンス・サピエンスの脳には、超越性の領域を内部に抱え込んだ心が発生し、そのことによって、宗教と芸術をおこなう心を獲得しましたが、その心は二つのプリミティブなトポロジーに分離していく傾向を抱えた一つの構造体としてつくられた、というのが私の考えです。ではそのおおもとの構造体はどんなものかと言えば、トーラスとクラインの壺の両方の要素を含んだ「射影平面」というモデルが、いちばん近いのではないかと思われます。

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近代文学者はたいへん恋愛が好きです。代表は太宰治でしょう。つぎからつぎへと恋愛を繰り返して行く。太宰の恋愛は同じパターンを繰り返しています。恋愛を重ねて行くのは、自分の中の絶対に満たされない女性性に対する欲望が、その人を突き動かしているからです。これもインテリの特徴をよく表しています。深層心理の中では、母親や故郷の風景に包まれていた自分が、生き続けている。つまり共同体の感覚が生き続けていながら、都会では近代人として振る舞わなければいけない。共同体のない都会には、疑似共同体としての作家の集まりとか飲み屋での集まりがあるが、そこでは絶対に満たされない何かが恋愛へとつながっていくのです。

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アリの群れの中で一匹の働きアリが自分の成すべきことを考えている、この思考方法のあり方とよく似ています。アリは自分で意識的に思考しているわけではありませんが、常にアリの共同体全体の中でものを考えています。ですから個体のアリに浮かぶ思考は、常に共同体の他の成員の思考方法につながっていて、全体が一つの大きいマトリックスをなしています。マトリックスの中にいる個体は、個人意識に立って判断・思考するのではなく、自分の属する大きなマトリックスの考えにつながっています。他の人が何かを考えると、それは常に「私」の考え方に反映してきます。そのため、「私」が何かを考えると他の人に影響を与えて、そのマトリックス全体が微妙な変化をしながら変動していく。こういう世界ということになります。

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贈与と物々交換の間には、システム論に還元不能な質的差異が存在している。私たちは贈与的または互酬的な交換がおこなわれるとき(それは現代生活のまっただ中でも、しばしばおこなわれている)、商品交換(モノの売買)がおこなわれるときとは違う関係性が、当事者間に発生しているのを、はっきりと感じ取ることができる。外側から観察していると感知できない違いが、それらの交換を内側から体験してみた人間には、はっきりとわかるのだ。
このとき感じられる違いは、質的で実存的なものである。等価交換と贈与交換との間にある質的な違いを追求していくと、私たちは自分たちがいま生きている社会の特質を、はっきり理解できるようになるばかりではなく、いま主流の経済学的思考に対する根本的な批判の土台を、固めることができるようになる。だから、そこにある違いを明確に取り出すことのできる思考が、私たちには求められているのである。

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対称性の知性と言語的な知性との間には、根源的な違いがある。二つのタイプの知性は、同じ人間の心で同時に活動をおこなっているが、その活動には本質的な違いがあって、そのことが人間の心の複雑さの本質をなしている。
(中略)
対称性の知性は、S+Vの言語的な深層構造の影響を受けないで働く。そのために、「私」を環境世界から分離しない傾向が強い。そこで、「私が花を見ている」という出来事は、私が花を見ていると同時に、花が私を見ている、という出来事でもある。普通の論理では、花を見ているとき、私は花から分離されているために、私が同時に花でもあるという論理的な矛盾は起きないようになっている。ところが、対称性の知性にとっては、人が花を見、花が人を見ているという出来事全体のことがまるごととらえられているから、私と花は分離されず、そのことを論理的な矛盾と感ずることもない。このような対象性の知性が、人間の心の深層では、たえまない活動を続けているのである。

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どこを切り取っても、すごいなあと思います。そして、文体や言葉の選び方に、すごく親しみを感じます。書いてあることは難しいけれど、使っている言葉はいつも柔らかさがあって、まるで詩のように感じる章もありました。

それから、河合隼雄さんの話が何度か出てくるのですが、中沢さんの河合隼雄さんに向けた眼差しが、またとても柔らかくて好きです。河合隼雄さんやユング心理学のことはゲド戦記を通じてふわっと知っていたのだけど、本を読んでもう少しちゃんと知ってみたいという気がしています。
特に、経済の話から出てきた「トーラス」という図形の話が、河合さんの「中空構造」につながって、その中にぽっかりと空いた「穴」の話になっていくのは、胸のすくような感動がありました。(語彙力が足りなくて、うまく表現できないのがもどかしいなあ)


2012年以来、8年ぶりにこの本を通しでまた読んでみようと思ったのはたぶん、コロナ禍をきっかけに世界が新しい段階に入っていく気がしたからだと思います。読み終わって、あの時のように道標を示してもらえた気がして、やっぱり自分にとって今読んでおくべき本だったんだなあと思いました。

こんなに読むのに時間がかかる本、おすすめとはとても言えないけれど、もし他にも読んだ人がいたら、ぜひお近づきになってゆっくり向き合って話をしてみたい。そして「まじで何言ってんだか全然わからんよね!」を共有したいです笑

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