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道徳授業のドーナツ化現象

「思いやり」を扱った、こんな道徳授業を参観したことがあります。

その授業のねらいの一部を紹介します。
〇誰に対しても思いやりの心をもち、相手の立場に立って親切にすることの大切さに気付かせる。

このねらいを達成するために、このような発問がありました。
・教材の中の登場人物たちには思いやりがあるかどうかを場面ごとに問う。
・困っている人に対して、どのように接したらよいかを場面ごとに問う。
・自分がAさんだったらどうするかを問う。
・自分がBさんだったらどうするかを問う。
・本当の「思いやり」とは何かを場面ごとに問う。

このような道徳授業でねらいが達成できるのでしょうか。
私が生徒だったら、同じようなことが繰り返されるのでモヤモヤとした気分になります。
教えたい内容項目の周りをグルグルを回っているような感じを受けます。
つまり、生徒の思考が深まる発問、思考が刺激する発問がありませんので、ぼんやりとした授業になってしまうのです。
私はこんな状態を「道徳授業のドーナツ化現象」と呼んでいます。
核心を突くことがないので、何を学んだかよくわからない、どうすればいいかわからない感想を書く生徒が多くなります。例えば、こんな感想です。

〇思いやりとはなれて、どっちがいいのかわからなくなりました。
〇自分がどの行動をすれば正解だったのか答えが気になりもやもやする。
〇正解がないからこそ、こういう場面だったら自分はどう行動するか深く知れば知るほどもやもやした。
〇何が本当の思いやりという問いに対して、本当の思いやりがないことに新しく気づいた。何が本当かわからない半信半疑なのか、すごくもやもやした。

以前、「道徳教育 2020年1月号」(明治図書)にこんなことを書きました。

道徳授業は、将来、遭遇するかもしれない道徳性が問われる場面で、よりよい判断と行動ができるようになるために行う。

道徳授業のドーナツ化現象が増えて、モヤモヤした授業がスタンダードになっていくと、この目的はなかなか達成できないのではないかと思います。