「対話の哲学」についての反省
私自身の発表についての反省を書き出したら長くなるのは分かっていたのでもう書かないことにしようかと思っていたが、書くか書かぬかについてさえ書こうとするくらいなら、いっそのこと書いてしまおうというわけで書く。
目次
0. 資料
1. 進行
1.1 空間配置
1.2 時間経過
2. 20分間のスピーチ
3. 寺田先生との問答と対話に関係のない出来事
3.1 寺田先生から私への質問
3.2 私から寺田先生への回答
3.3 対話と関係ないこと
4. フロアからの質問、応答を通しての対話
4.1 質問と応答に介入するファシリテイトに関して
4.1.1 セーフティーに関する見解
4.1.2 ファシリテイターの役割
4.2 雑考
4.2.1 問いと答えの形式、問いの多義性
4.2.2 真理と思われるからではなく、真理であるから語ったのだということ
5. 補
0. 資料
■哲学プラクティス連絡会第2回大会
プレゼンテーション:2016.8.28(日) 10:00~11:00 *5会場同時並行(各会場、発表20分×2本+ディスカッション20分:計60分)
発表資料PDF
1. 進行
1.1 空間配置
寺田俊郎先生の司会で、結局のところ私が質疑応答を含めて60分間話すことになった。つまり、もう一人のプレゼンテーターが時間になっても現れなかったからである。同じ時間の他の会場ではきっとこんなことは起こっていなかったとすれば、全く不測の事態であった。つまり二つ用意されていた机の一方に私が座り、もう一方は空席で、司会の席には寺田先生が座っていて、プレゼンテーターと司会が聴取(フロア)の前にいる、という形である。
1.2 時間経過
0-30min
60分間と言っても20分間私が話をして、そのあと、次のプレゼンテーターが現れなかったので、寺田先生が、質疑応答というよりも対話についての対話をみんなでやりましょう、投げかけたのであった。その後二つのことを寺田先生が私の方に質問し、私がそれに答える、ということをした。そこまでで大体三十分弱くらいであった。
30-60min
私と寺田先生とのやり取りの後に、フロアとの質疑応答という形になり、それが最後まで続いた。
2. 20分間のスピーチ
初めの20分間のうちに喋ったことは、事前に一字一句書いていったのだった。いつもこのようにスピーチ用の原稿を書くのだが、一度もその通りに話したことがない。いつもいつも不備が気になってどうしても補足の説明をしてしまうのである。そういうことがないように、もうただ棒読みするだけでいいように、書いていったのだが、結局のところやっぱりそんなことはしなかった。とはいえ、大部分はそれに従って話したのであり、余計に話したことよりも書いたことの方がやはりよいので、もしも興味があれば、ここからそれは読める。そのうちの段落1-9までを話し、それ以外は全然触れていない。
https://note.mu/tritosanthropos/n/n8817a11a939a
3. 寺田先生との問答と対話に関係のない出来事
3.1 寺田先生から私への質問
寺田先生からは二つの質問があった。
①楽しいし癒しの効果もあるとされる哲学対話は、なぜ戯言であったりまやかしであったりしてはならないのか。それなりの効果や影響がもたらされるのだから、それでどうして十分ではないのか。
②問いと答え、議題と議論と言われたものは分かるが、質と量と言われているのは一体何のことか。文が「すべてのAはBである」とかいう形式を取るということから量ということを言っているが、何のことを言っているのかさっぱりわからない。
3.2 私から寺田先生への回答
私は②から答えた。
②ここで質と量と言っているものを理解してもらうためには、そもそも対話ということから問いと答えとを完全に除去し、そして問いと答えを手にして対話をし始める、というプロセスを理解してもらわなければならない。そのうえで、問いと答えを手にするならば、問いと答えによって成り立つ議題が一つなければいけないということから、それを量と呼んでいる。そしてまた、問いと答えの形をとって議題が現れるからそれを質と呼んでいる。
おそらくは、これほど短く答えたのでもなければはっきりも答えもしなかった。もっとたどたどしく、寺田先生の質問の意図を探りながら、あるいは意図を誤解せぬように気をつけながら、モゴモゴしながら答えたと思う。そのようなみっともない姿をしながらも答えることができたのは、おそらくは、「寺田先生にはこの話題(私の言葉でいえば議題)が分かっているだろう」と私を信じさせるような寺田先生の態度と知識があったからである。つまり、寺田先生がカントの専門家であることを私は知っていたが、寺田先生は、「これはカントのカテゴリー論だと思うのですけれども…」と言ったことがある一定の知識を前提としてよいという安心感を私にその時にもたらしたのであると思われる。私はその一言を聞いたときに、そのことを前提として話してもよいのだと思い、カントのカテゴリー論、あるいはカテゴリー論一般のことにつながればよいと思ったのであった。それゆえにまた、②のところで示したような、自分自身の主張を繰り返す、ということを行い得たのであると思われる。そのことが伝わったかどうかは、はっきり言ってわからない、というのも、私の説明が正しいかったかどうかの吟味の問答には入っていかず、寺田先生は「はい」と答えただけだったから。私もこれだけで分かってもらえたとは思えなかった。しかし、時間に制限もあり、専門的な話になりすぎないようにするためにも、この問答はそれでよいのだと思われた。
その次に①を答えた。短く言えば、効果がもたらされたりするためには、そもそもの何かがあってそれの効果となるのでなければならない。哲学対話はそのそもそものものであるから、戯言やまやかしではありえない、ということであった
3.3 対話の関係ないこと
ところで、②の問答の終わりの方で、このプレゼンテーションの議題や議論とは全く関係のない発言が起こって、プレゼンテーションの進行は一瞬ではあるが中断した。今になって考えてみると、あの中断は次のようなものの好例としてよいことに気づいた。すなわち、そのような発言がある対話の時間の内で起こり、しかも問いと答えの形式を持っていたのであるが、それでもそのれらが対話の一部であるとは我々は見なさない。なぜなら、議題に何の関わりもない問いと答えであったし、どんな理由にもなりえないものであったからである。対話の本質として、議題、議論、質、量、以外のもの、例えば時間とか空間とか人物とかを始めから持ってきては、そういうことに関して難問が生じるということなのである。私の今回のプレゼンテーションで、幾たびも対話とは関係ないものを排除することについて述べたが、その排除すべき実例が典型的な形で起こったことに言及してもよかったのかもしれない。ちょっと危険が伴ったかもしれないが。
4. フロアからの質問、応答
フロアからの質問や応答を全部は記録できてはいないだろうが、大体以下のようなものであった。
a 答えがある、ということに対する誤解
b 対話という意味を私(木本)が限定した狭い意味で使って定義しているから、対話のことが対話と言ってもいろいろなものがあるので、それを考慮に入れていないのはおかしい。
c ある特殊な話題は哲学対話であるとは言い「えない」とまで言っていいのか。
d 「答え」は「答える」に変えた方がいいのではないか?
e 哲学対話では意見を変えたりすることが望ましいとされるが、それを逆手にとって、君は意見を変えたほうがいいよと迫ることがある。
f 私(木本)の見解は哲学対話の何であるかを明らかにする少数派で硬派なアプローチであるし、それをもっと推し進めるべきである。
g 私(木本)の見解を十分理解する前に、少数派だというのはちょっと早すぎるのではないか。
4.1 質問と応答に介入するファシリテイトに関して
一つ一つに言及していくことはしないが、とにかく全体を通して、寺田先生の進行に助けられすぎていた。おそらく私の言いたいことの多くを寺田先生は理解しておられて、ときには私(木本)の言っていることはこうだ、と私の代わりに質問に明確に応答したうえで、私にその確認の問答を行っていた。寺田先生に理解してもらえたと私が思ったのは、対話である限りは問いと答えの形式に則っているのでなければならない、ということである。このような発想はカントの専門家にとっては日常的と言えるようなことであろうから、「あの話か」と思ってもらえたのかもしれない。おそらくは的を得ていなかった私の回答が次のように言い換えられたとき、「そう言えばよかったと思いました」と単なる率直な感想を言ってしまった。
・「ある問いが立てられたとき、その最終的な答えを知っているというわけではなく、答えを求めている、という形式がある、ということですね」
・「ある問いに対して答えがないということがありうるにしても、「答えがないと」という答えであるような形式は変わらない、ということが言いたいことですよね」
4.1.1 セーフティーに関する見解
他にも私が微妙なニュアンスの誤解をしたときには、発言を遮って「いやそうではなくて」と軌道を修正してもらったし、また、話の途中で質問者に答えようとしてしまったときには、「最後まで聞いてから」と忠告されたりした。実は、私の次に予定されていたのは、このようなファシリテイターのあり方についてのプレゼンであった。私はその時間内ではただただ自分の難しい話をフロアに伝えようとしていただけであって、以上のようなことに反省的になる余裕もなかったが、とにかく、安心してはいた。私にとってセーフティとはこのようなものが典型である。つまり、それは自分自身のどんな発言でも許されるという単純なものではない。あえて言ってみるのならば、発言それ自体が、その発言に即して適切であるように反対されたり賛成されたりすることを通じて、発言の主体を含む対話の参加者すべてが対等であるということ、とでもなるだろう。
4.1.2 ファシリテイターの役割
私の考えでは、対話それ自体にはファシリテイターは必要なものではないし、真理を求めて語る限り、ファシリテイターの力量云々を当てにしてはならない。しかしながら、どうしても人間が対話をするという限りは、ファシリテイターが関与することで、真理を求めて語るという目的が容易になる(ファシリテイト)のである。逆を言えば、真理を語るという目的は常に人間的な何か(おそらくは感覚、感情、もっと一般に感性といってもよく、純粋に理性的ではないものといってもよい)によって妨げられているということでもある。さて、ここで真理を求めて語ると言われていることは、純粋に対話の形式に則っているということと説明されねばならないのだが、そのことについてはまた別の機会に語ることにしよう。
ここで私が言いたかった個人的な感想は、寺田先生が私が今回論じたことの基幹部分については専門知識を持っていたことと、またファシリテイターとしての経験も豊富であったこととが私にとっては幸運だったということである。自分の未熟さに嫌気がさしているのは言うまでもないことだが、非常に多くのことを学ぶことができたし、まだ学びきれないところがあることも知ることができた、というのと子供の感想のようだが、それに尽きるとしか言いようがない。私はやはりまだ哲学の幼稚園児である。
4.2 雑考
考えれば考えるほど、言いたいことは増えてくるので、全体的なことを少しだけ書いて終わりにする。
4.2.1 問いと答えの形式、問いの多義性
質疑応答の中で、やはり、問いと答えは形式であるということが、なかなか理解されなかった。このことがどうしてなのか、それが分かりさえすれば私は何かもっと明確なことを言いうるであろう。発表を終えて反省したところ、「問い」とか「答え」というのが多くのことを意味するということを示すことが人々の理解を促すのに効果的なのではないかと思っている。私がプレゼンテーションで与えた規定は「問い」とは疑問文のことだということなのだが、おそらくはそのことを注意深く理解してはもらえなかったように思われる。問いとは、例えばある人が別の人に向かって話しかけるというのでもあり、また例えば疑いをもってある事柄を知ろうとすることでもあり、さらに例えば多くの事柄一緒くたになって困惑している様子を語ること、などということをもっと言うべきであったのかもしれない。これらいずれの場合にも、我々は疑問文を用いるのであるが、そのことを指摘すれば、問いが形式であるということが理解され、対話にとって不可欠な要素であることがもっと明らかになったのかもしれない。
4.2.2 真理と思われるからではなくて、真理であるから語ったのだということ
プレゼンテーションの中でも言ったし、質疑応答の度に私は繰り返し言っていたのであるが、今回に限らず、私がこのようなプレゼンテーションを行ったのは、ただひたすら真理を求めようとしてということであり、私の解釈を人に伝えようと思ったのでも、私の意見を表明しようと思ったのでも、私が何かを主張しようと思ったからでもない。対話とは何であるのか、について私は語ったが、対話とは何であると私に思われるか、を語ったのでは全然ない。木本なる個人に思われているところの「対話の何であるか」を他人に向けてまで語る理由は全くないからである。真理を求めて語るとは、真理であると思われるから語るという理由だけでは不十分であり、真理であるから語るという理由もなければならない。そうであって初めて、真理を求めて語る対話になるのであるから。
5. 補
いろいろな面で私は自己にも他者にも批判的ではあるものの、哲学プラクティス連絡会が私にとって有益であったのはもちろんであり、誤解であれ批判であれ、ときには非難であったとしても、何らかの反応がある(あった、あるだろう)ということを私はとてもありがたいことと思っている。というのも反発であっても非難であっても論争であっても、それらが対話とは言えないとは思われないからである。そういうものがもしも全然なかったら、対話とは全く言われなくなるのであって、私の関心ごとは常にそのことなのである。