『形而上学』は遊びか?
どこででも買えるアリストテレスの『形而上学』(岩波文庫)を手にとってみよう。この書にまつわる巨大な問題群(書物としてはどう成立したかとか、ギリシャ語の翻訳はどうとか、、、)には一切目を向けないで、1巻1章のはじめ(ページ数21)からとにかく読み始めよう。そして見開き6ページまで一字一句を追ってみよう。そして、1巻2章の終わり983a22(ページ数30)は、「さて、これだけで、何が我々の求めている学の本性であるか、またなにが我々の探求や我々の研究全体の射当てるべき標的であるかは、述べられた。」というところにまで辿り着こう。このような文は各章の終りに度々出てくるもので、後世の人が付け加えたものである、と言われている、ということには、今は立ち入らないようにしよう。この一文を信ずる限り、この形而上学という書物が狙いとしていることを知りうるはずだろう。そのように考えることは普通であろう。
ところで、では、この1,2章には一体どのようなことが書いているのであろうか。これらの章に書かれていることなら何でもが、『形而上学』(書物としてのそれの意味と、形而上学という語義という意味と、の両義を理解してもらいたい)の狙いなのである、とはもちろん言えることではない。それは先を読まねば判断できることではなかろうし、先を読んだだけではももちろん分からず、幾たびも考えてみなければ分からないことであろうが、まさにそうするためにこそ、読む私の狙いをある程度定めなければならない。間違っていたとしても、正しかったとしても、それは後になって分かることであって、そもそも読んでみようとの動機を起こすための、何かが必要である。私がこれを読む動機はもはや、「有名な著作だから」とか「哲学的常識だから」というようなものではない。その程度の動機しか持たない人が大半であろうが、私はその中の一人ではない。もしも仮に私がそのような動機を持つ一人であったとしたら、読むに値しない書物だと判断したことだろう。有名な著作であってもくだらないことはたくさん書いているし(そのような著作をこの他にもどれほど多く読んできたことか!多くの著作を読まねばならないハメになったのは、問題中の問題が、なんと、どの書にもどの箇所にも結局全然書かれていないからなのである!悲しきかな!)、哲学的常識などというほど、この書物に書かれていることが理解されているとは、全然思われない。よく言っても人々は単に口真似しているに過ぎない。もっとも口真似をしていると自分で気づいている人も多くはないことからすれば、有名だということになっている(「なっている」に傍点)著作というに過ぎないであろう。
p24, 981b10
さらに我々は、いずれの感覚をも知恵であるとはみなさない。もちろん、たしかに感覚は、個々特殊の物事については、きわめて信頼に価する知識である。しかしこれは、なにごとについてもそれのなにゆえに(「なにゆえに」に傍点)そうあるかを語らない。たとえば、火のなにゆえに熱くあるかを説明しはしないで、ただその熱くあるということ〔事実〕を告げるのみである。
それゆえに、最初に、常人共通の感覚を超えて、或るなんらかの技術を発明した者が、世の人々から驚嘆されたのも当然である。それも、ただたんにその発明をしたもののうちになにか実生活に有用なものがあるからというだけではなくて、むしろそれを発明したほどの者は知恵ある者であり、他の人々とはちがって遥かに優れた者であるからという理由で、驚嘆されたのである。だが、さらにいろいろの技術が発明されてゆき、そしてその或るものは実生活の必要(アナンカイア)のためのものであり、他の或るものは楽しい暇つぶし(ディアゴーゲー)〔娯楽〕に関するものであるが、これらの場合にいつでもひとは、この娯楽的な術の発明者の方を、前者のそれよりも、その認識がなんらの実際的効用をもねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵ある者だと考えた。そこからさらに、すでにこうした諸技術がすべてひと通り備わったとき、ここに、快楽を目指してのでもないがしかし生活の必要のためでもないところの認識(エピステーマイ)〔すなわち諸学〕が見いだされた、しかも、最も早くそうした暇のある生活を送り始めた人々の地方において最初に。だから、エジブトあたりに最初に数学的諸技術がおこったのである。というのは、そこではその祭祀階級のあいだに暇な生活をする余裕が恵まれていたからである。
p25, 982a1
さて、以上によって、知恵が或るなんらかの原因や原理を対象とする学〔認識〕であるということは、明らかである。
p25, 982a3-20
しかし、まさにこの学〔認識〕を我々は求めているのであるから、これが知恵であるためには、これはどのような原因をどのような原理を対象とする認識であるべきか、このことをまず研究しなくてはならない。ところで、このことは、もし誰かが、「知者」〔知恵ある者〕について我々のいだいている種々の見解をとって調べてみれば、おそらくこれによっていっそうよく明らかになるであろう。そこで、まず第一には、(1)我々は「知者」をばすべての物事を認識している者と解している。ただしその意味は、かれがすべての物事の一つ一つについての個別的な認識をもっているというのではなくて、ただ能う限りすべてをというのである。
ここ(982a5あたり)では、知者(ソフォス)というのが挙げられているが、フィロソフォス=哲学者が挙げられていないのはなぜなのだろうか。形而上学1巻の執筆年代は981b28あたりに出てくる「倫理学」ということから推察してニコマコス倫理学の執筆年代より以降であると想定すると、プラトンやイソクラテスが「フィロソフォス」や「フィロソフィア」なる名をいかに用いるべきかに関して論争を繰り広げたはずであり、そのことを知らないはずはないアリストテレスはどうして単純に「フィロソフォス」や「フィロソフィア」が人々にどのように使われていたのかを挙示してみせなかったのか、不思議に思われるからである。しかしながら、こうした当時の背景や歴史のことを勘案する必要はないと、私は先に自分自身で肝に命じたのであった。まとわりつく問題に目がくらむことのないように、訓練しているところだということを、私よ、思い出せ。こうした「勘案」が、なんらか「哲学」に寄与することになるのは、もちろんであろうが、そのことからは、結局のところ「事実」しか知ることはできないだろう。先の引用981b10では、感覚が事実を知らせるのみであり、それだけでは知恵ではないと言われていたのであった。知恵は、982a1原因や原理を対象とする、と言われているのであった。それが、形而上学の狙い、なのではないか。もしもそうであるとしたら、こうした「勘案」は、形而上学の狙いからは外れていることであろう。そして、また、フィロソフォスが挙げられていないのはなぜなのかという問いや、ソフォスでなくてフィロソフォスが挙げられていたらどうなのかという問いは、それ自身では興味深いはずであろうが、私が先に立てた問いに直結していると即断することはできない。だから、それは問いのまま、それ以上手をつけずに、残しておこう。
p28, 982b20
ところで、この知恵は制作的(ポイエーティケー)ではない。このことは、かつて最初に知恵を愛求した人々のことからみても明らかである。けだし、驚異することによって、人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、フィロソフェインし始めたのである。ただしその初めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念を抱き、それから次第に少しずつ進んで遥かに大きな事象についても疑念を抱くようになったのである。例えば、月の受ける諸相だの太陽や星の諸態などについて、あるいはまた全宇宙の生成について。ところで、このように疑念を抱き驚異を感じるものは自分を無知なものだと考える。それゆえに、神話の愛好者(フィロミュトス)もまたある意味では知恵の愛求者〔哲学者〕(フィロソフォス)である。というのは、神話が驚異さるべき不思議なことどもからなっているからである。したがって、まさにただその無知から脱却せんがために知恵を愛求したのであるから。かれらがこうした認識を追求したのは、明らかに、ただひたすら知らんがためにであって、なんらの効用のためにでもなかった。そしてこのことは、その当時の事情がこれを証明している:すなわち安泰な暮らしや楽しい暇つぶしにも必要なあらゆるものがほとんど全く具備された時に初めてあのようなフロネーシスが求められた出したのであるから。だから明らかに我々は、これを他の何らの効用のためにでもなく、かえって全く、あたかも他の人のためにでなく己自らのために生きている人を自由な人であると我々の言っているように、そのようなまたこれを、これのみを、諸学のうちの唯一の自由な学であるとして、愛求しているのである。けだしこの知恵のみがそれ自らのために存する唯一の学であるから。
982b20の、いわゆるタウマゼイン(驚異)のくだりは、哲学の始まりとしてよく知られた一節であろう。私の目には、その近くの「楽しい暇つぶし」とか「なんらの実際的効用をもねらっていない」とか「何らの効用のためにでもなく」とかいう言葉が同時に飛び込んでくる。そのように飛び込んできた言葉は、「遊び パイディア paidia」という言葉を記憶から引っ張り出してくる。さらにその「遊びpaidia (この語は”教育”や”教養”をも意味する)」なる語は、「子供 pais」とか「戯れ paizein, paizo」を想起させもする。「遊び論」ではちょー有名な、ホイジンガは、ギリシャ語のそれらについて、こう言っている。
『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)p76
ところで、この子供の遊びを表すまったく特殊な呼び方に対して、ギリシア語ではひろく遊びの世界全体をさす名称として、少なくとも三つ以上の異なった言葉が使用される。その第一は、三つの中でも一番よく知られた「パイディアー παιδιά」である。この語源は明らかで、子供に関することとか、子供に属するものといういう意味だが、そのアクセントの位置によって「子供っぽさ παιδία(パイディア)」とは直ちに区別される。しかしこの言葉が使われるのは、子供のあそびという分野だけに限られてはいない。その派生語である「ふざける、踊る παίζω(パイゾー)」や「スポーツπαίγμα(パイグマ)」「おもちゃ παίγνιον(パイグニオン)」などとともに、あらゆる種類、形式の遊びを呼ぶのにこの言用語が用いられている。われわれが前に見てきたような、最も神聖、高級な遊びを呼ぶのにさえ用いられるのである。快活さ、楽しさ、不安から解放された歓びといった意味合いが、この一群の言葉すべてに響いているようにみえる。
哲学の始まり(アルケー:原理、駆動力、原因などの意味を持つ)としてのタウマゼインとともに、哲学の終わり(テロス:終局、目的、ねらい、などの意味を持つギリシャ語)としての「遊び」や「娯楽」がここに示されているとは、考えることができないであろうか。つまり、哲学は驚きをもって始まり、それ以外に何をも求めないそれ自身のための遊びとして終わりを迎えて完成に至るとのことが示されているとは、考えることはできないであろうか。そして、「形而上学」という言葉の意味、その著作を指すとともに、「形而上学」ということで独自の意味があることが知られているだろうが、その意味は、明らかに「遊び」を意味しているのではないか?
さて、古代ギリシャの遊びや子供、といえば、ニーチェやハイデガーが、引用し解釈するヘラクレイトスの一節も思い出さないわけにはいかない。それにしても、遊びを論じたり遊びのことを何か言っている哲学者は他にもいるが、シラーとかヴィトゲンシュタインとかフィンクとか、誰もみな、全然遊んでいなさそうな堅苦しいドイツ人ばかりだ、と思うのは、私の偏見である。あの言葉の響きからして、全然遊びからは程遠いと思われて仕方がない。イタリア人やギリシャ人は、言葉の響きからしても、軽やかでいたいけである。これも私の独断である。毒弾!
ヘラクレイトス断片DK52
αἰὼν παῖς ἐστι παίζων πεσσεύων· παιδὸς ἡ βασιληίη.
世界の成り行きは将棋の駒を並べて遊ぶ子供である。------ 子供の王国。(オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』p69の訳)
先のヘラクレイトスの、「世界の成り行き」と訳されているのは、αἰὼν (aion)であり、時間とか永遠とか人生とか訳されることもある、ということは付け加えておかねばならないが、あとは自分で考えてもらいたい。
昨日書いたガレス・マシューズのことを思いながら、私だったらどんな子供の相手をしてあげられるのであろうか、つまり逆にいえば、私を相手にしてくれるのはどんな子供であろうか、と考えてみた。相当多くの哲学的子供をあやしてきたはずの、アリストテレス先生に、頼んでみたけれど…、というのが上で試みたことなのである。そしてアリストテレス先生が実は子供だったらどうなのか、と私は考えてみたのである。それもまた、上で試みたことである。では、プラトン先生に頼んでみてはどうか。プラトン先生は実は子供だったらどうなのか、というのは、もうすでにやったことがある。それを披露するのは、また今度にしよう。
私の幼少時代(「幼少時代の私」ではない。そんな子供はもういない!そんなときはもう過ぎ去ったのだ!)は、今の私と遊んでくれるであろうか。これが、私自身の子供時代のための哲学ということの意義でありはしないかと、私は今考えているところである。