読書感想文 『遊びの現象学』西村清和

『遊びの現象学』西村清和
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あとがきでは、遊びが主題的に論じられたのは、「教育学、心理学、社会学と並んで美学」p351と言われている。そう言われているとおり、美学への参照も多い。それと同じくらい多く、特に近代(カントやシラー)から現代にかけての西洋哲学にも言及されている。私の印象に残ったのはサルトルの眼差しを扱っている第四章かくれんぼの現象学四節遊ぶまなざし、とか、第八章ルールの概念二節言語ゲームとかである。印象に残ったというのは、もちろん両義的な意味であって単純に反対とか賛成とかいうものではない。反対とか賛成とかしながら考えてみたい、と思ったということである。

このような、「反対とか賛成とかしながら」とは、繰り返し行われる運動と捉えられ、その賛成や反対の運動の反復は、何らかの問題に近づいていく、といった表象を我々に抱かせるだろう、それが、この著作で言われている「遊び」と言われていると理解することができる。第二章遊びの祖型三節猶予としての不在---がらがら(p38)では、「宙づりの相互期待と同調という共有の関係の枠組みこそ、我々がさがしている遊びの、最も単純な枠組みにちがいない」と言われている。これと類似の表現で幾度も遊びは説明される。

非常に多くの著作や思想に言及されているにもかかわらず、例えばニーチェとかキルケゴールとかデリダとかソシュールとかルソーとか、私が最も「遊び」を感じる哲学者たちの著作には、あまり言及がなかった。そして、古代や中世の著作に言及してもいなかった、ほとんど。プラトンやアリストテレスや他の古代哲学者たちも遊びについて述べている(「述べ」なくとも「遊んでいる」)ところがあると私は思うのだが、というのもこの著作があげるフィンクやホイジンガが指摘しているのだから、この著作はそれらの範囲については手を出していないようであった。また、私が実は最も知りたかったことの一つ、子供にとっての子供の遊び、については言及されていなかったと感じた。大人にとっての子供の遊びに、無自覚に同化されていると思われた。

論じられていないことについてあげればきりがないわけだが、まさにそうした多くの問題については沈黙を守って、遊びを遊びとして捉えるという試みこそ、この著作が意図した仕事であろう。というのは、この著作が力説しているとおり、遊びが独特のものとしてこれまでは考察されてはおらず、単なる比喩として理解されるにとどまっていた、というのは確かだからである。だから、この著作は遊びを理解するのに比喩にとどめるだけでなく、他の著作や思想に数多く言及しながら、遊びというものが独自の存在様態であることを明らかにしようとするのである。この著作のそうした仕事に関する限り、その仕事は首尾よく達成されていることは間違いないだろう。

さて、ではこの著作の「遊び」に関してはどうであろうか。この著作の遊び「を」、あるいは著作の遊び「に」、「遊ぶ」こと、に関しては、どうであろうか。私は、この問いを問わずにはいられない。というのは、この著作を読もうとしたのは、対話が、哲学が、言葉の真の意味で「遊び」であると、私には思われたからなのである。

「遊びのアイオーン、遊びの神々、遊びの世界、遊びの存在は、どうだろうか。われわれが、哲学の遊びにふみこむときには、いつもは耳をふさいでいる問いについても、しばしの対話が許されるであろう」(p335)。


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「遊びの現象学」の書評

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http://ci.nii.ac.jp/els/110003713981.pdf?id=ART0004844538&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1485398971&cp=

2

http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/1990sr2.html

あまり関係ないけど「遊びの哲学」

http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/195/2/kyoiku56pp.93-98.pdf

対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。