1 パレーシア、怖れ、セーフティの対話
求 知さんよ、真理の探求ってものがどれだけ難しいか知っているかい?
知 ああ、知っているよ、求さん。一人でやるのも難しいけれど、二人やそれ以上となるとまた別の種類の、同じくらいの難しさがあるね。
求 そんな対話のときには、君はどう思っているのかね?
知 邪魔してはいけないとびくびくしてしまうことが多いかもしれない。
求 それこそが、君のような大人が対話に臨む際の、最善の態度なんだよ。
知 そうなのかい?
求 そうさ。対話の参加者がもっとも安心できるのは、真理を語ろうとするならば、とても慎重でなければならず、だからこそ、勇気をふり絞らなければならない、ということを知っているときだよ。これが大人のための対話のセーフティで最も重要なことだ。
求 つまり、パレーシアに対する畏怖が対話の参加者に共有されることを通じて、安全性が生まれるということだね?
知 そう。無知を自覚している人々に限ってそのことが言えるのだけれども。
求 そのことならばね、そういえば、真里と勇生が一度知恵を絞って考えたということだよ。
知 そうかい。どれどれ。
M 久士くんと英士くんはこのところずっと対話の形式の対話をしていたよね。結構謎だったけど。
Y そうだね、謎といえば謎だったけど…。でも、「対話とは何か?」と問う人が久士くんであり、「このことだよ」と答えるの英士くんだったわけで、それこそがまさに対話だってところは、十分僕には理解できた気がするな。久一くんと英一くんの対話よりはまだましだったよ。
M そうかもね。問いと答えが短く区切られていたしね、久士くん達の対話の方はね。そういえば、「問いと答えは単位になり、対話を区切るんだ」という話題が対話の中にもあったよね。
Y そうだった。短く区切られていて、なおかつ、三歩進んでは二歩下がるみたいに、話題の始めと終わりには「ちょっと復習」があって、何度もしつこく言い聞かせてもらった感じがした。多分それで十分理解できた、という感じがしたのだと思うよ。
M その「ちょっと復習」ってのは、ところで、NさんとSさんと勉強会をしていたときに二人が教えてくれたことだよね。とくに「書く」ときには、段落には言いたいことは一つ、1ページで何を話しているのかを揺るがしにしてはいけない、っていうのは。
Y その勉強会のことなんだけど、僕はあの勉強会では少し緊張していたのに気づいたかい?
M まあ、なんとなくね。でもまあ、先輩達を目の前にしてテキトーなことは言えないよね。
Y そうなんだ。だからこそ、僕にとってはあの勉強会での対話は、今の僕が思う理想の哲学対話だったと思う。
M へえー。どうして?対話では緊張していた方がいいの?それって対話のセーフティってこととは一見逆のように思われるけど…。あまり緊張したところでは自由に対話できない気がするんだけど…。
Y まず、どうして僕が理想の哲学対話だったと思っているのかを簡潔に言っておくよ。それは、真理を語ろうと必死になったからだ。
M そうなのだろうけど、それはどういうこと?例えば?
Y 例えば、あの対話においては、二人の先輩は僕よりも一層哲学をしてきたのであり、さらに専門的な知識を持っている。そういう人々が本気で何か真理を語り聞こうとしている姿には、たとえ見たところでは和気あいあいとしたものであっても、何らかの畏怖を感じざるをえないと思うんだ。
M んー、難しいなー。まあ、続けて。
Y その上で、そういう先輩達が、真理の探求に寄与する何かを僕が話そうとすれば聞いてくれる。こういう空間に僕はセーフティを感じるんだよ。
M うーん…。
Y そして、真理の探求に寄与する何かを言うのには勇気がいる。だって、僕自身は真理を知っているわけではないのだから。そして、対話しているみんなも真理を知っているわけではない。その人たちが必死で真理に向かう探求をしているのに、いい加減なことを言ったばかりに、真理の探求を台無しにしたくないって思うんだよ。だから緊張してしまうのは当たり前じゃないかな。
M 緊張するのは確かにそうだね。「畏怖」というのも、何かを台無しにしたくない、ということから少しわかる気もするな。でもやっぱり、そんな対話ってセーフティがないんじゃないかな。
Y そうなのかな?それはセーフティがないってことなのかな?僕は逆に、こうした「畏怖」や「緊張」こそが、真理を語ること(パレーシア)を全面的に許してくれるのだと思う。だから、知的に安全なのだと思うけれど。
M でも、セーフティや知的安全性っていうと、安心や安らぎのことがまず一番初めに来ると思う。だから、何を話しても非難されたり嘲笑されたりしないことがセーフティの一番の基本だよ。やっぱり君は正反対のことを言っている気がして、どうしてもセーフティなんかじゃない気がするな。
Y 君がいうようなセーフティが、純粋に真理を探究することのできる子どもたちやそれに類する人々にとってのものだというのならば、僕は全面的に賛成だよ。しかしながら、悲しいかな、僕自身を含めて、大人たちは一般に、純粋に真理を探究できるような神々しい存在者ではないんだよ。
M なるほど。しかも、そんな大人のうちのほとんどが、純粋に真理を探究できてはいない、という自覚すらないものね…。
Y そのとおりさ。だからね、大人たちにとってのセーフティは、子どもたちにとってのセーフティとは異なったものでなければならないよ。
M では、大人たちのセーフティとは結局どういうことになるの?それが君の言っている「緊張」とか「畏怖」とかいうこと?
Y そうだね。でも、もちろん、セーフティというからには、「安心できる」という要素はもちろんあるよ。
M それは例えば?
Y 君が真理に近づこうという態度で発した言葉に限っては、たとえうまく言えていないとしても、他の人がそれを修正してくれるだろう。「君の言わんとしたことはかくかくしかじかですね?」、「そういうことならば、今の議論の限りではこれこれということになります」というふうに、君よりも、君の発言がその対話でどんな位置を占めるのかを言ってくれる人がいるのは、とても安心できることだろう。だからこれをセーフティと言っていいと思うのだ。
M なるほどね。それは心強いね。
Y また、それとは逆のこともあって、多くを話しすぎる場合や愚かな発言に対しても、はっきりと、「間違っています」とか「黙って下さい」とかいうことが言われるならば、これもセーフティだと思う。
M え?どうして?そんなふうに言われたら恥ずかしい思いをしちゃうじゃん?
Y そうだよ恥ずかしい思いをするよね。でもそれでいいはずだよ。そしてもうそんな恥ずかしい思いをしたくないと思うに違いないよ。
M それがセーフティなの?安心できるってことなの?
Y そうじゃないかな?だって、知らず知らずのうちに愚かな発言をしたり、しゃべりすぎたりしてしまったら、真理の探求という基準に即してきちんと矯正してくれる人がいるのは、安心できることではないかな、君が真理の探求を目指すならば。
M 確かに、君のいう通りではあるかな…。
Y こんなに偉そうなことを言ったのだけど、僕もしゃべりすぎていたり、愚かなことを言っていたりすることはある。それを指摘されたら恥ずかしいだろうし、なかなかそれを受け入れるのは難しい。後になって考えても納得できないだろうね。でも、だからこそ、哲学がどうだとか対話がこうだとか論じるだけでなくて、本当に繰り返し繰り返し実践しなければいけないと思うんだよ。まだまだ哲学するのも対話するのも、哲学対話するのも、簡単にはできない。けれども、それは、いつも、誰にとっても、難しいことは僕はよく知っているつもりだよ。
M そうだね。だからやっぱり、ここまで私たちが対話してきたことっていうのは、とても難しいってことだよね。
Y そういうことになってしまうね。僕たちは、無知を自覚している対話者たちに限っては、真理の探求が台無しになるかもしれないと怖れることでセーフティを生み出すことができる、ということを論じてきたのに…。
M 論じてきたそのことは、今ここで対話しているこの対話にしか言えないことかもしれないんだね…。
Y だから、それを知ろうと欲する(哲学する)するしかないんじゃないかな?
M つまりやっぱりデルポイの神託ってことなのかな?
Y 汝自身を知れ。
M 度を超すなかれ。
知 求さん、どうやらこの二人は、子どもたちにとってのセーフティのことはまだ話していないらしいけど。
求 知さんや、鈍いですなあ、そりゃあ、わしらがやらんといかんことなんですよ。
知 ちょっと今日のところはもう寝なきゃならんので…。
求 夢でも哲学はできると?
知 さあ、どうでしょう?おやすみ!