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砂の器

松本清張「砂の器」を入手しました。
目的は作中登場人物である和賀英良のコンサート描写です。

「和賀さんの音楽って、すごく新しいんでしょう。なんですか、前衛音楽とかって……」
「そうだ、ミュージック・コンクレート(具体音楽)というんだ。」

松本清張「砂の器(上)」新潮文庫

演奏の出口は、しかし、中央だけではなかった。観客の頭の上からも、脚の下からも、押し包むように音が迫ってくる。これは立体的な効果のため、それぞれの位置に、スピーカーが取り付けられてあるのだった。」

松本清張「砂の器(上)」新潮文庫

その音色は、あるいは唸り、あるいは震え、あるいは喚き、あるいはたゆたった。それが強く、弱くつづくのだ。金属性の音も、鈍い音も、人の哄笑に似た声も、そこでは分解され、総合され、緊迫し、弛緩し、休止し、高潮していた。」

松本清張「砂の器(上)」新潮文庫

知的で、重苦しい音楽会だった。人びとは耳よりも頭脳の労働に疲労した。理解しがたいという表情は、ここでは現わしてはならないのである。そのような点で、聴衆のだれもが、この音楽の前に劣等感に陥っていた。

松本清張「砂の器(上)」新潮文庫

「砂の器」は母親が買った本で、当時高校生で活字に飢えていた私が家にあった古びた本を読んだ記憶があります。想像以上に面白かったのと、高校生らしく和賀英良の属するヌーヴォー・グループに反感を覚えて記憶があります。(松本清張氏の意図通りにノセられたといえばその通りです)

この小説のことは時々思い出していたのですが、最近になって和賀氏の音楽が気になっていました。映画版はドラマ版だと普通のオーケストラか何かに改変されていて、原作で何と呼んでいたかが気になり借りてきました。

ミュージック・コンクレート(Musique concrète)をYoutubeで検索すると様々な音源が出てきますが、1万回再生されているような音源はかなりまれ。

それでも理解できたことは「これらの自然音や人の声や不協和音を使う手法、今では普通にボカロP達が取り入れてる手法だよな」という事。そしてそれを私以下の世代は割と普通に受け入れて頭脳ではなく感覚として楽しんでいる、という事です。

多チャンネル化したスピーカーだって今では普通に家庭に入り込んでいて、普通過ぎて誰も特別視しなくなりました。

ここに至るためにどれだけの人たちが試行錯誤を繰り返したのだろうな、と人の世の営みと無常に少し心が動くのでした。

「これは無数の魂を削って出来たアンセム」

「大漠波新」あいのうた / 初音ミク・重音テト


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