"言葉" と "心情" の天秤
言葉には、目には見えない「重量」がある。
言葉って、重くて、軽い。
その重量は絶対的な不変の値ではなく、受け取り手の心の中で、面白いくらいにコロコロと変化するものだ。
例えば、軽い気持ちで「就活終わったよ」と友達に連絡したとする。
どれくらいの軽さかと言うと、「マジ?お疲れ!!遊びに行こ!」という返事を想定するくらい。
しかし、「おめでとう。よく頑張ったね。あなたは去年から就活を始めて苦労している様子を見ていたけど、やっと…」などと長文が返ってきたりする。
相手が悪いわけではない。
この時、私の軽い気持ちが、言葉という着ぐるみを着て重く感じられてしまったのかと、小さな反省をする。
もう一つ例を挙げる。
心臓がきゅっと縮んでしまうくらいに心を込めて、「本当に○○が大好きだ」とSNSで投稿したとする。○○は芸能人でも、本や映画などの作品でも、なんでもいい。
するとそこに、「私も好き!!あそこがよくない?笑」などと軽い気持ちのコメントが来る。
これも相手が悪いわけではない。
素直に嬉しく思って、コメントに返事をする人もいるだろう。
ただ、私だったら、私の重く深い気持ちを背負っていたはずの言葉が、相手の画面上ではただの記号となってしまったのかと、複雑な気持ちになる。
俗に言う「ガチ勢がニワカを嫌う」といった風に。
受け取り側の“○○”に対する想いが強ければ強いほど、他人のコメントが軽い言葉に思えることがある。
もちろん、相手も同程度の強い想いを持っている可能性がある。
言葉選びや発信方法にもよるが、人の発する言葉に対して感じる重さ・軽さは、必ずしも本人の気持ちの重さ・軽さとは一致しない。(そもそも気持ちの重さを客観的に量ることは出来ないけれど)
逆に、軽い気持ちで「○○が好き」と言ったら本気にされてしまい困った、などの現象も有り得るだろう。経験のある人も多いのではないか。
このようにコロコロと変化する言葉の「重量」に、私のような他人の目を気にする人間は特に、敏感であると思う。
だから自分の気持ちを言葉にして表現したいとき、私はいつもモンモンと悩んでいる。
今までプロフィールに「お笑いが好き」と書いておきながら、お笑いに関するnoteを頑なに書かなかった。
やりどころのない溢れる想いをぶつけたくて、何度も書こうとはした。
『私はお笑いが好き。毎日様々なお笑い芸人が出演するテレビ番組をチェックし、録画して、好きなものはディスクに焼いて、何十回と見て、ライブDVDを見て、定期的にライブに行って、笑わせてもらって、生きている。お笑いの世界は実に……』
と、ここまで書いた時点で吐き気がして、下書きを消すのだ。
「好き」という気持ちと、実際の行動が伴うことが全てではないと分かっている。お金や住んでいる地域の関係で、欲しいDVDを全て買えるわけでもないし、行きたいライブに全て行けるわけでもない。
分かっていながら、自身の行動を羅列することによってしか、想いの深さを示すことが出来ない表現力のなさに嫌気が差す。
さらに、上記のような "本当にお笑いが好きだけど行動ができない人" の怒りを買ってしまうことも、そこまでお笑いに関心のない人に軽々しく「分かるよ」などと言われることも、悔しくてたまらない。(妄想のし過ぎだが)
言葉にすることで、私のお笑いへの熱や愛を簡単に捉えられてしまいそうで、軽く思われてしまいそうで、どうしても許せなかった。
人の気持ちなんて、100%は理解してもらえない事くらい分かっている。
でも、お笑いだけは特別で、私がどれだけ救われてきたか、どれだけ幸せで充実した時間を与えられてきたのか、その全てをを言葉にして伝えたい。
けれど、言葉なんかで分かった気になって欲しくない。
でも、お笑いに関するnoteを書いている人がたくさんいて、「お笑いが好きな人」として周囲から認識されていることに、嫉妬で狂いそうになる。
だからせめてもの対抗として、プロフィールには「お笑いが好き」とだけ書いている。
言葉と心情は、天秤のような関係性なのだろう。
心情が重いと言葉は軽く、心情が軽いと言葉は重く感じる。
この天秤を釣り合わせるだけの錘を身につけたい。
そのためにこれからもnoteを書く。
私がお笑いについて、ストレスなく思ったままに綴ることの出来る日は、来るのだろうか。