見出し画像

六月のピノ

 落ち込んだ時でも、食欲は落ちないタイプである。高校で吹奏楽部の大会オーディションに落ちた日は、丼で涙を隠しながらうどんを啜り、大学で初の彼氏に一カ月で振られた日は、友人たちと彼の悪口大会を開きつつお好み焼きを分け合った。特に思い出深いのは、赤いパッケージが眩しい六粒のアイスである。

 大学四年の六月、その日は、第一志望の企業の二次面接だった。緊張で心臓が体を突き破りそうだった。ボロボロの想定問答集、企業研究のファイル、OBからの応援のLINEを見返し、午前十時、私は深呼吸をしてリモート面接のページを開いた。

 初めは良かった。自己紹介は慣れたもので、志望動機も流れるように答えられた。だが、三つか四つ目の質問で、想定外の話題になった。一瞬で頭の中が空になり、全身の血がサッと下がっていくのが分かった。無言になってはダメだ、でも二十分しかない面接では一つも間違えられない。とっさに出た答えは、支離滅裂で自分でも何を言っているのかわからなかった。要領を得ないまま長々と続く話を、ベテランと見える面接官は遮らずに聞いてくれた。が、その顔には明らかに諦めが滲んでいた。相手の心が離れているのを知りながら話を続けるのは苦しい。何とか挽回しなければと焦れば焦るほど、呼吸は浅くなり余計に訳の分からないことを口走る。面接官とのビデオ通話を切った時、一瞬ホッとした後、夢と理想に通じる道が断たれてしまった現実に、容赦なく引き戻された。

「もう、本当に、全然ダメだったんだよ」

 学食の一角、友人とカツカレーを前にして腰を下ろした瞬間、私の中から逃げ出すように言葉が出た。友人の葵には、今まで就活の夢も不安も話してきた。幸か不幸か、その日は昼食を一緒にとる約束をしていたのだった。

「そっか、本当に頑張ってたと思うよ……」

 いつもは互いにおしゃべりのターンを譲らないのに、その日はそれからずっと葵の一方通行だった。留学中の高校生の妹の話や、バイト先の人間関係の話に、私が上の空で相槌を打つ。そんな会話未満のやり取りをしながら、二人ともゆっくりカツカレーを食べた。

 午後の授業がある彼女と別れ、アパートに帰った。大好きなラジオを聴いて気を紛らわそうとしたが、会話が全く耳に届かない。代わりに面接で失敗した回答や、面接官の憐れむような表情ばかりが頭の中でリフレインされる。悠長に受かった後の空想なんかして、どうしてもっと根を詰めて準備しなかったのか。いや、土壇場で冷静でいられない私なんか落ちて当然だ。丸めた右半身にフローリングの冷たさを感じながら、自分を責めるような考えばかりが浮かんできた。

 夕方頃、インターホンが鳴った。ドアの前には昼間会った葵が立っていた。驚いていると、彼女は白いレジ袋を差し出した。

「暑くなってきたからさ、アイスどうかなと思って」

 近くのスーパーに来たから寄ってみた。そう話すのを聞きながら中を見ると、赤いパッケージのピノが一箱入っていた。

 そのスーパーは、彼女が日々使うような場所にある店ではなかった。もっと、大学や彼女の家に近い便利な店は沢山あった。直接的なことは何も言わないけれど、面接で落ち込んでいる私を心配して、元気づけようとして訪ねてくれたのは明らかだった。

 胸がいっぱいになった。馬鹿みたいに何度も「ありがとう、本当にありがとう……」と繰り返した。つらい時に、誰かが気遣ってくれること、私のことを考えて会いに来てくれることが、たまらなく嬉しくてありがたかった。彼女は私に合わせて相槌を打って、言葉少なに帰っていった。私は、何度か振り返ったその姿が見えなくなるまで彼女を見送った。

 一口サイズのアイスは、六個入でもすぐになくなってしまった。それでも、一週間後に不合格のメールが届いた時も、年が明けても一向に内定が取れず、就職浪人を決めた時も、夢だった業界を諦めて、今の会社の内定を承諾した時も、ずっと、私の中にはあのピノがあった。

 それは今も変わらない。ずっと溶けてなくならない、六月のピノの思い出だ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?