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かかりつけの喫茶店
大学に入学して一人暮らしを始めてから今まで、何度か引っ越しをした。千葉、東京、埼玉と関東を転々として今に至る。そのたび自然と近所に、普段使いの喫茶店をつくるようになった。
千葉では柏にある、個人経営の喫茶店へ通った。東京では駅前のドトール。現在はイタリアントマト。家で過ごすより読書や作業に集中できるので、どの店も重宝していた。
くだらない話をすると、大学時代、友人の前では柏の喫茶店をあえて「かかりつけ」と呼んでいた。
私や友人が薬学部だったこともあり、ひと笑いとっていた。「かかりつけ」は病院に使う言葉だ、というジョークだった。
昨日、エッセイを書いた。大学時代に通っていた、柏の喫茶店をテーマに当時の記憶を思い出した。振り返ると、あながち「かかりつけ」という表現は間違いではなかったな、と思う。
進路の選び方を間違えたため、大学生活は総じて順調とはいえなかった。精神的に疲弊していた。一時は中退や、最悪の選択肢も考えた。そんな中、漂流者が木片にしがみつくように辿りついたのがその喫茶店だった。
コーヒーを飲む。店長やバリスタのお姉さん、常連仲間と話す。その一時だけは苦痛を忘れられた。私にとって「行きつけ」以上の役割を、その喫茶店は持っていた。
社会人になってからも困難はあったが、結果としてキャリアを軌道修正できた。不安定な仕事だからこその不安はあるが、当時のような憔悴感や絶望は感じない。「行きつけ」はあっても「かかりつけ」の喫茶店はない。
それでも時々「かかりつけ」を思い出して、懐かしさを覚える時がある。
エッセイを書き終えたら、なぜか涙が出てきた。店が閉店すると知ったときも、先日店の跡地がまつげサロンになっていたのを目の当たりにしたときも、泣くことはなかったのに。
あの日々を3,000字の形にして、私はやっと「かかりつけ」が過去になったと実感したのかもしれない。
エッセイは、12/1文学フリマ東京39にて販売予定。
アンソロジー『エモセルシオールでエモーヒー』に収録します。
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