夜をきさらぎ/5分で読める現代短歌25
白い息に白い息被せゆく夜をきさらぎ、きみもさびしいといい
/虫武一俊
おそらく〈きみ〉は恋人か何か思いを寄せるひとだ。いわゆる相聞歌。"相聞歌" は万葉集から続く分類らしく、現代短歌でも大変に多い。私的なことがらのひとつとして、一人称文芸の短歌とも相性がいいのでしょう。ただし、勿論、(異)性愛に限らない〈思いを寄せる〉相手への慕情すべてで成立しうるとぼくは思う。その一形態として、恋愛がある。どう読むのがいちばん歌を良い歌として読めるか。
作者の虫武一俊むしたけかずとしは、主に雑誌への投稿やTwitterを中心に活動を開始し、現在も結社などには所属していない。第一歌集『羽虫群』(2016)で、第42回現代歌人集会賞を受賞している。しかし掲出歌は第一歌集後の発表作で、Twitterを中心に活動していた5名の連作が寄せられたネットプリント『とり文庫 vol.2』に掲載された。(※ネットプリント:PDFファイルをユーザが登録することで、全国のコンビニのプリンターから印刷できるようにするサービス。作品発表の場として盛んに使われていた時期があった)
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歌意的には、主体が〈きみ〉のことを思い出している夜のひと場面だろう。〈きらさぎ〉は如月と書き、本来帝には旧暦二月のこと。そこから転じて、新暦二月の異称としても用いられている。
吐く息が白くなるほど、先に吐いた息が白く残るほど冷えた二月の夜に、その寒さからだろうか、主体が〈きみ〉のことを思い浮かべる。
白い息に白い息被せゆく夜を
初句6音+二句8音で、やや詰まった印象。歌の意味としても、〈白い息に〉〈白い息〉を被せてゆく、つまり息を吐くそばから白くなるほどの寒さなのだろうと張り詰める雰囲気で読んだ。なお、ここまでだと、ふたつの〈白い息〉が異なる二者の息とも読める。前述の張り詰める感じは二人であっても矛盾しない。
三句切れの歌として、続く〈きさらぎ、〉からが下句と読んでいる。
白い息に白い息被せゆく夜をきさらぎ、きみもさびしいといい
〈きみもさびしいといい〉は完全に内声、主体のつぶやきそのもの。〈も〉ということで、いま主体がさびしく感じていることが分かる。「さびしいから会いたい」とか「寒いけど元気だろうか」ではなく、いまこの寒い夜に〈きみもさびしいといい〉と望む主体の精神性、性格が感じられる。同じさびしさを共有したいと言いきれない、完全に同じでは有り得ないことを前提として〈さびしいといい〉って薄っすら望んでしまう感じ。〈私〉のさびしさと〈きみ〉のさびしさが、つながればいい。
上句は全体的に、〈被せゆく夜を〉などもかなり圧縮された言い方で、省略や短歌的な助詞の斡旋がある。意味的には決して下句に繋がらない〈夜を〉の〈を〉とか。この上句と吐露の下句を、〈きさらぎ、〉がとてもうつくしく架橋している。
白い息に白い息被せゆく夜をきさらぎ、きみもさびしいといい
〈きさらぎ、〉がどことなく、呼びかけになっているから。
ここでの〈きさらぎ〉は、如月という季節、時間、世界の状況としての実景と、主体に思い浮かんだ〈きみ〉のイメージをぐっと近づけている。
〈きみもさびしいといい〉と自身のさびしさを意識するとき、きみのことをまず思うことになる。如月の夜という寒い寒い空気から、〈きみ〉のいまへ、精神が一瞬渡る。さびしさというのは、そこにあり満たされていたはずの胸の何かしらが無くなった穴に吹く風なので。
白い息に白い息被せゆく夜をきさらぎ、きみもさびしいといい
韻律も整っている。
”ki”をベースにi音が上から下まで張っていて、一気に読ませる力がある。特に〈きみもさびしいといい〉は、まさしく一息に吐いてしまう。〈被せゆく〉のみ若干口籠る気もするが、強く押し切られる。〈きさらぎ〉と〈さびしい〉で濁音含めた発音をかなり寄せていていい感じ。
本当に冷え切った冬の夜の空気のなか、きみのことを思う、きみのさびしさを想像する瞬間には、わずかに、きみと会っている、話している瞬間の感情が前提とされている。先に何かがあって、それが喪われている、その欠落がさびしい。
でも、そのさびしさという点で、きみと共に在ることができるよう願う。
如月の語源として、もともと衣更着・更衣と書いて「2月はまだ寒く、さらに衣を重ねて着た」ことからとする説もあるらしい。〈白い息に白い息被せゆく〉にその重層を見出すのはやりすぎか。
寒さが身に染みる夜、同じようにさびしく思ってくれていますように。
白い息に白い息被せゆく夜をきさらぎ、きみもさびしいといい
/虫武一俊「きさらぎの街」
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