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邂逅:異質なものを併存させる

1.「異質なものを併存させる」が気になる理由

今日は最近のキーワードである「異質なものを併存させる」について書いてみようと思います。どうしてこの言葉が気になっているかというと、ここのところ「人が自分と異なる意見やアイデアを持っている人に対して寛容であるには何が必要なのか」ということについて考えるきかっけがいくつかあったからです。偶然にも時を同じくして今アメリカでBlack Lives Matterというソーシャルムーブメントが起きていて、これも不寛容な社会の一例だなぁと思って見ています。このソーシャルムーブメントはどこに着地するのかまったく具体的な方向性が見えませんが、その根底には具体策を示すための概念の不在があるのかなと思ったりしています。

2.同質と異質:社会はそもそも異質なものを包摂する仕組みを持っていなければならない

いつものように、言葉の整理したいと思います。はじめに「異質」という言葉ですが、これは「同質」と対の言葉ですから、ここから考えるのがよさそうです。

同質であるということは、性質が同じ・類似しているということなので、同じ空間にいてもぶつかり合うことはありません。同質なグループに属することは考えや感覚の近い人たちと一緒にいることですから、属する個人にとって心地よい空間だと言えます。それほど多くの言葉を使って説明しなくても、一言二言で言いたいことが通じる、感じていることに共感してもらえる、そういうような空間が同質なグループになります。

「異質」はこれの反対ですから、人の関係で言えば、考えや感覚に違いがある状態です異なる意見や行動が現れ、時々はそれらがぶつかり合うことになるでしょうから、異質なものが同じ空間にある状態はあまり居心地がよいものではないでしょう。

異質なものどうしが同じ空間を長い時間共有すると、やがて緩やかに同質へとむかっていくのだと思いますが、同時に同質化の過程では異質なものを排除することも起こりえます。排除する側は無意識かもしれませんが、される側にとっては差別や格差という経験になり、反発心が生まれます。異質なものが関係しあわずに同じ空間にただ存在するという状況も想定できますが、それは無関心の空間で、あまり現実的ではありません。ある空間を共有していれば共通の関心事というのが必ず出てきますから、やはり異質なものどうしが関わりを持つ必要がある状況は生まれてくるでしょう。

このときにどんなルールに従うのかを考えてみたいと思います。自然界の場合には食物連鎖という基本ルールがありますから、異質なものは共生できない限り、片方が排除されます。しかし、人間社会の場合には人権をはじめとして様々な権利を大事にしていますから、異質であるということを理由に排除はされません。つまり、人間社会は異質なものが恒常的に存在する条件を受け入れているので、異質なものを包摂する仕組みを持っていなければならない、と言えそうです。残念ながら多くの社会がこの仕組を十分に持っていないのが現状ではないでしょうか。

3.共存と併存:どのような状態で同時に在るのか?

次に共存と併存という言葉についてですが、そもそもなぜこれらの言葉が気になるのかというと、「異質なものを包摂する状態をどのようにつくるのか」という問いに直結するからです。

「共存」と「併存」、言葉として似ているようで、ニュアンスがけっこう違います。イメージ図にしたほうがわかりやすいかと思ったので、下のようにまとめてみました。

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まず「共存」の方は、複数の異質なもの・存在(人やグループ、アイデアなどなんでもいい)が同じ空間にあるときに、お互いがこの空間の条件のなかで共生していけるように調和を取り合う、という意味合いで示しています。例えば、「人間と動物の共存・共生」とは言いますが、「人間と動物の併存」とは言いません。これは人間と動物がお互いの存在を補完しあいながら、共有している空間(環境)のなかで協調しながら生きていこう、というメッセージが含まれているからだと思います。同じ状態を示す言葉としては、調和をとる「和」があるでしょうか。

図の中では、AとBというものがあり(例えば人間と自然)、お互いに異質ですが、ひとつの空間に同時に存在しています。この状況で、AとBがそれぞれ勝手に空間を占領するようなことをしてしまうと、同居している空間との調和が取れなくなってしまいます。そのためAとBがやりとりをして全体の調和を取るような相互補完的な関係性をつくっていってはどうか、ということになります。その手続きの時にAとBの境界が重なり合い、時間の経過と伴に徐々に境界が溶け、ABというひとつの統合した仕組みにむかっていきます。空間のなかで存続していくために、環境に自己を最適化していくイメージと言ってもいいかもしれません。人の営みが自然界の循環を助ける里山の資源管理が具体例として思いつきます。

「併存」の方も複数の異質なものが同じ空間にあることに置いては同じです。ただ、対照的なのは、AとBがやりとりをしますが、境界はそれぞれ単独で存在し、統合には向かいません。AとBはあくまで双方に対して異質な存在としてあり続け、空間という環境に対して最適化された存在へと変化していく手続きは起きません。代わりに、AとBは双方と出会うことで、お互いに刺激を受け合い、同じ空間に併存する前の段階とは質的な変化をし、AとBが元々持っていた性質や特徴を継承しながらも新しい性質を獲得した、A'とB’という状態に変容していく、そんなようなことが起きるという仮説を持っています。「AとB」も「A'とB'」も、お互いに異質な存在として在る状態は変わりませんが、「AとB」がお互いの異質性に向き合う前だとすれば、「A'とB'」はお互いの異質性を受け入れることができるようになった状態で、全体として異質性を包摂できる空間に向かう、というイメージです。

4.邂逅:やさしくなるために必要なこと

異質なものとの出会いは「邂逅(かいこう)」という言葉で表現できます。辞書的な意味は「思いがけない出会い」ですが、異質なものと出会うという概念として、木岡伸夫著の『〈出会い〉の風土学:対話へのいざない』や『邂逅の論理:〈縁〉の結ぶ世界へ』で紹介されていたり、オギュスタン・ベルク著の『「風土学」とはなにか:近代「知性」の超克』の世界観ともつながっていて、深い議論が展開されています。

詳細の説明はこれらの書籍を見て頂くとして、異質なものと出会って自己が変容する「邂逅」という概念がなぜ気になっているかというと、それはつまり「やさしくなるために必要なこと」なのだと思うのです。

「やさしさ」をどう定義するのかという問題に次はつながるわけですが、ここで冒頭に書いた問いに戻ると、人が自分と異なる意見やアイデアを持っている人に対して寛容であることは、やさしいことだと思うのです。

私たちは、社会という同じ空間を異質なものと共有しながら暮らしているわけですので、そこでは必ず共通の関心事があります。それは義務教育で何を教えるのか(教えないのか)かもしれないし、公共施設にお祈りのための部屋があるべきなのかどうかかもしれないし、毎週のゴミ出しの方法かもしれません。異質性を受け入れ、多岐にわたってものごとに備えれば、社会としては複雑性が増すので維持管理コストが膨大になります。これは財政的なコストだけでなく、合意形成にかかる時間や労力という側面からも莫大なコストになります。この複雑性を受け入れるためのコストを徹底的にカットすれば、とても効率的で経済的生産性の高い社会ができあがりますが、その社会は複雑性や多様性を受け入れるための”溜め”のない、不寛容な社会になってしまうでしょう。つまり、やさしくない社会です。

自らと異質なものにどのくらい出会い、その邂逅を通じてどのくらい自分自信を変容させていくことについて自覚的かつ開放的でいられるかが、やさしい社会をつくるためには必要なことだと思うのです。人々の日々の暮らしの動線上に、自然なかたちで異質なものと出会える場所や機会を仕掛けを用意しておくことが、回りまわって社会をよりやさしいものにしていくような気がしています。

ここ数週間のことを振り返ってみて、異質なものに出会えているでしょうか。今のコロナ禍はたくさんの異質なものとの出会いに溢れているように思いますが、残念ながら世界ではこれを遠ざけ、邂逅として捉えられてはいないように見えます。その正しい・正しくないに関わらず、お互いの正義や教義を正面からぶつけ合っているだけでは、それは実は出会ってすらいないのだと思います。

自らの考えや行動が変容することを受け入れる気持ちがあるときに、私たちは、はじめて異質なものに本当に出会えるように思うのです。


5.参考






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