読書メモ:『コミュニティによる地区経営』
『コミュニティによる地区経営』は、都市の縮退に関する研究分野で著名な大野秀敏東大名誉教授ほか、総勢19名の専門家が、コンパクトシティ政策の対抗策としてCMA (Community Management Association: 地域経営組合)という仕組みを提案している。本書が答えようとしている中心的問いは、「日本の都市が人口現象にどのように対応すべきか」というもの。
1.CMAを提唱するに至った背景
第一章は「日本の都市で何が起きているのか」について書かれている。各著者が10ページずつで、地方化する大都市郊外、昔に戻れない都市外縁部の自然、スポンジ化しながら縮小する都市、大型開発地域から取り残された業務地、などなど、都心と郊外で起きている課題について説明している。
これら、人口減少時代に日本の都市が抱えている諸課題への対応策として、現行用いられているのがコンパクトシティ政策だ。ざっくりと言えば、コンパクトシティとは、空間的に広がり過ぎたために維持管理にコストのかかり過ぎる市街地を、その中心にむかって集約(コンパクトに)していこうという都市計画である。拡大成長時代における開発によって拡大した空間を、生活に関わる主要な機能をある拠点を中心にした狭い範囲に集約させることによって、運営的にも行財政的にも身軽にしよう、というのがコンパクトシティの狙いである。そして、多くの場合に、集約する中心に商業施設や交通の拠点を置くことで、地域経済の活性化も狙っている。この傾向は地方都市でより顕著だ。
本書はこのコンパクトシティ政策が実際には上手く機能していないことを指摘し、これに代わる(代替案や補填案ではなく)対抗策として、CMAを提唱している。なぜ住民自らが組織する団体が単位になるかといえば、人口減少を背景に自治体も民間企業も都市計画に投資をしたり、大規模に動くことができなくなっている今日、"衰退するコミュニティを立て直すには居住者自身が表に立つしかなくなる(p.11)"というわけだ。
2.CMAの概要
第三章では、CMAの基本的な特性が5つのポイントでまとめられている。このうち、以下の3つがCAMの基本理念と言えそうだ。
① 主体としての住民とCMA
CMAとは住民が住みよい地域を目指して地域空間の運営と管理を長期にわたっておこなうために設立する組織である。それぞれの地域において住民の意向と現状を踏まえて、独自の目的をもって居住地の将来像と運営管理の方法を自ら決定する。CMAはの制度においては、住民は公共サービスの受益者にとどまらず、地域の管理主体の役割を引受けることになる。
②CMAの区切りと機能
CMAの区割りは、原則として基礎自治体の範囲を分断したものであり、区域は相互に重ならない。区域の規模は、住民が地域の実情を肌身で感じ、意思疎通や合意形成が可能な程度の小ささが必要であるが、同時に公共サービスの費用削減においてスケールメリットを出せる程度に大きさも必要である。さらに、地域の歴史や履歴を考慮しつつ決定されるべきである。
③CMA組織と運営
CMAは公正に選ばれた役員によって運営される非営利の法人であり、原則としてその区域に居住する世帯が構成員となって住民に提供する事業をおこなう。主な財源は、CMAはが自治体から公共サービスの移管をうけるにあたって自治から割り戻される費用とCMAが構成員から徴収する公益費の二つである。CMAは、利益をあげて将来の活動へ再投資をすることも独自の財源を持つこともできるが、事業の利益を構成員へ分配することはできない。CMAは、公的な法人として税制の優遇を受け、市町村によって活動が監督される。
まとめると、CMAは、人口減少社会における生活環境の維持管理については、住民自らがお互いの顔を見渡せる範囲の規模感の単位において地域の将来像について話し合いながら、自治体から移管された費用と自ら徴収する公益費を財源に、住民自らが主体となって計画を実行していくという仕組みである。
3.さて、ここからが私の意見
本書を読んで気になったのはCMAの前提になっていること。ここを疑ってみたい。本書で示されている説明においてCMAは、自主的に組織された法人格を持つ住民組合によって、ある居住地域の維持管理がマネイジメントできると言っている。でも果たしてそのようなことは現実的なのだろうか。以下の2点に難しさを感じる。
1点目は、「地域をマネイジメントする」と言ったときに適している項目とそうでない項目があること。人口減少社会には、公共サービスの維持管理コストが増加していく、という問題がある。CMAはこの問題に対応するために、住民自らが地域管理の計画と実施を担う主体になるべきだ、と言っている。この方法は、道路の補修や街なかの整備など、これまでの生活環境の質を維持していくための、いわゆる地域の生活環境を「守る」趣旨の活動について機能しやすいだろう。一方で、CMAは地域の魅力を高めて新規の人口をを呼び込むというような「攻め」の要素も担うことができるとしている。例えば、景観を統一することで美しい町並みをつくるや、子育てしやすい町をつくるなどのテーマ設定をし、それにそったまちづくりを実施できるとする。しかし、このような戦略的なマネイジメントは住民全員参加が前提の組織には馴染みにくい。住民の一人ひとりが自身が生活している居住環境の管理にもっと主体的に関わるということにおいて、住民側の視点から考えれば、現行の生活環境の維持に直結する「守り」の要素については、まさに地域をマネイジメントするインセンティブがあるだろう。一方で、議論において意見が分かれやすく且つ実施においてリスクが伴う「攻め」の要素については、むしろ議論しにくくなってしまうのではないだろうか。CMAは地域で生活する際に最低限維持したいクオリティについて決め、それを維持するための仕組みとして主に機能するように思う。
2点目は、CMAが「住民自らが自分たち地域の維持管理・将来像について主体的に関わっていく」というボトムアップな動きを、政策というトップダウンな形で実現しようとしていること。対象に自主的に動いてもらうために政策を先につくるというのは、それは結局は自主性を持たない主体に行動を促すことになる。これでは本当に物事がボトムアップに動きだすときに起きる自由な発想や創造的な視点に立った考え方が生まれにくくなってしまう。こう思う一番の理由は、魅力的な都市や地域は、必ずしも全体の合意形成の上で作られた計画に沿ってつくられてきているわけではないからだ。むしろ、魅力的な都市や地域は人々の自由な発想や表現を許容することで、はじめは全体のごく一部のユニークだったものが、時間をかけて広がり、その地域を象徴するクオリティになっていったりする。はじまりのところから合意形成があり、特定の将来像にむかって計画的に進められるものによってつくることのできる魅力は、つまりははじめの段階から想像できる範囲の魅力に留まる。
CMAが好ましいとしている規模は人口8,000~2万人ほど。この規模感で、ひとつの地域を生態系と捉える視点をCMAに取り込むと「攻め」の項目を補完できるのではないか。例えば、生活環境の質を現状で維持する「守り」の項目については本書で提案しているようながっちりと組合化する政策で回す。難しいのは「攻め」にあたる項目のほうで、こちらは自然発生的に生まれてくることが好ましい。多くの場合には、民間企業の体力が十分にない地域の場合には、この自然発生を期待するのが難しいという結論になり、だからこそ住民組織を政策的につくるように促すべき、という考えになりがちだ。しかし、これは先述のとおり、「ボトムアップな動きをトップダウンにつくる」という理論的矛盾を内在している。これに対応するためには、そもそも地域をマネイジメント可能なシステムとして見るのか、それともある程度の不確実性を内在しているシステム(生態系)として見るのかの議論が必要になる。
CMAでは前者を地域をマネイジメント可能なシステムとして見ているが、実際の地域は多分に生態系として存在している。つまり、システムを形成している個にはそれぞれの意思や目的があり、その集合体として、あるバランスの上に地域は存在している。このシステムはすべてが合理的なルールの上にあるのではなく、日々のトライ&エラーを繰り返しながら、絶妙なバランスの上に息づいている。そのなかでは、「攻め」にあたる項目は、この生態系のなかにいる個がそれぞれに起こす動きが、無計画な有機的つながりを生んでいったときに具体的な活動に帰結していく。つまり、政策としてできることは、その生態系がこの無計画な有機的つながりをよい多く生み出せるような状態にしておくことだけだ。
地域が生態系として存在していると見れば、人口や経済活動の縮小といったことも、シンプルな推計だけで議論を終わらせることができなくなる。規模が小さくとも生態系としてのメタボリズムが活発なゆえに経済的にも社会的にもインパクトのある動きを見せてくる地域も増えていくだろう。このときにマネイジメントできる安定的なシステムとして地域を捉えていれば、おそらく多くの変化に気がつくことができず、それこそそれらの動きに適当な政策的アプローチを取る機会を逃してしまうことだろう。前提とする「地域」がどのように存在しているのかについて、見方を生態系型に代えた都市計画の議論を聞いてみたい。