心の芯を覗かれている ―さくら(著:西 加奈子)の読書感想文―
西 加奈子さん著の「さくら」を読んでいる最中、私は自分の心の芯の部分を覗かれているような、そんな不思議な感覚に浸っていた。
その感覚はちくちくと、時にはざりざりと、何かを削るようにして迫ってくる。それでも本を途中で閉じることは出来ず、ページをめくり続けてしまう。
それはかつて地学かなんかの授業で見た、いかつい機械が南極の大地を垂直に細長く掘り進むさまに似ている気がした。
氷に覆われた地面に直径約10cm(ソフトボール3号球よりやや大きめの円)の穴を、深さ約3000m(標高でいえば地上から富士山8合目位のところ)までゆっくりと掘っていく。いかつい機械はざりざりと円柱形に氷をくり抜き、慎重に地上へと引き上げる。
アップで映された氷の柱はそれはとても透き通っていて、神秘的で、迫力があった(のに、それが何の作業なのかは全く思い出せなかった)。地学の得意な夫に聞くとその一連の作業はボーリング調査といって、地質を調べるために必要なことなのだと教えてくれた。
なぜ私の脳みそが「さくら」と南極のボーリング調査を紐づけてしまったのかは分からない。ただ本を読んでいる瞬間に自分の心の芯を覗かれる感覚になるというのは少々変わっている気がする。「さくら」を通して物語の主人公達である長谷川家の一部始終を覗いているのは私の方であるのに。いったい私は誰に心の芯を覗かれているのだろう。
本文章は「さくら(著:西 加奈子)」の内容に一部触れます。「さくら」の本または映画を鑑賞しておらず、内容をあらかじめ知りたくない方はブラウザバックか以下のダミーリンクを押してこの記事から回避してください。
西 加奈子さんの書くような文章を、私は一生書けないと思い始めたのは「さくら」を読んでわずか14ページ足らずのことであった。
主人公薫の「胃やら腸やら食道をごしごしとブラシでこすりたい」感情から始まって、兄の一(はじめ)レジェンド、妹ミキの「勇気あり」。どれも読みながら新鮮な気持ちを味わった。
第二次性徴の機敏な心の揺れだったり、性欲、排泄にまつわる事柄なども、西 加奈子さんは包み隠さず、そして淡々と書きあげる。長谷川家が本当に実在するかのように錯覚してしまうのは、この部分の緻密な描写があるからかもしれない。これらは人をかたちつくる上で避けられない、必要不可欠な事象であるからだ。
対して私は、こういう話題を取り上げようとしない。途中で気恥ずかしくなってしまうのが目に見えているからだ。noteで書く夫とのやりとりだって決まってたわいの無い会話ばかりを切り取る。
南極のボーリング調査で例えるならば直径約10cm、深さはたった5cm程の穴(というより溝)をあちらそちらにいくつも作るような感じ。氷に模様をつくる楽しさを味わえるかもしれないが、いつまで経っても調査は進まないだろう。
「さくら」を読み進める度に西 加奈子さんの筆力を実感するのは、深さ約3000mを優に超えて、なんなら南極大陸直下の地殻も越えたぐつぐつ煮えたぎるマントル部分にまで到達してしまいそうなほどに深く掘り進めた先にあるものを、慎重にかつ淡々とくり抜いてみせるからだ。
本来奥底に埋まっているものをあえて表面に露出するというのは、相当のエネルギーが必要で、痛みも伴う。物語の中盤で長谷川家を襲い続ける深い悲しみを薫を通して追体験していくうちに、心の奥底で眠らせていたはずの自身の辛い記憶も、ちくちくと鋭い痛みの残る思い出も、全部掘り起こされてしまった。でもなぜだか悪い気はしなくて、なんならすっきりとした気持ちにさえなった。
物語の後半、ミキは今までずっと奥底に埋めていた兄への思いを掘り起こす。
「うち、もし、もし好きな人出来たらな、」
「好きやって、言う。迷わんと言う。あんな、好きやて言う。だってな、その人、いつまでおれるか分からんやろ? いつまでおれるかわからん、な。好きやったら、好きって言う。」
「お兄ちゃんは死んだけど、な、やっぱり思たやろ? 生まれてきてくれて、ありがとう。そう思たやろ?」
長谷川一家をぎゅうぎゅうと乗せた車のなかで、ミキがあふれ出す涙のように吐き出した言葉は、氷の柱のように透き通っていて、神秘的で、迫力に満ちていた。
痛みを伴いながらくり抜かれた心の芯が、忙しなく振舞うことで忘れていた大切なものをもう一度思い出させてくれた。きっと「さくら」を読まなければ、こんな体験は出来なかった。
読了後、細長く掘られた心の芯の部分に思いを馳せてみる。芯の底から空を仰いでみると、表層から恐るおそる顔を覗かせている人影が見えた。その表情は何とも動揺している様子で、目を凝らしてよく見れば、それは、普段は事もなげに日々をやり過ごしている私であった。私は私自身に心の芯を覗かれていた。そんなに怯えなくても大丈夫。もう大丈夫だよと遠くにいる私に叫んだ。
おまけ
「さくら」を読んだ後に「Top of the world」 を聞いてみたら、「さくら」で引用されていないところの歌詞で泣いた
いーざーらー、ざーあーふうえばー、しんゆーびーおらうよーらっぷみー、あーざーとっぽらわー。
物語の最後の最後で、薫が夢の中で聞いたあの呪文みたいなフレーズはカーペンターズの「Top of the world」のサビ部分だったことが判明する。
恥ずかしながら私は「Top of the world」のメロディーをCMなどで聞いたことはあるものの、歌詞をしっかり読んだことはなかったので、これを機に歌詞を眺めていたところ、二番のBメロに目を見張った。
There is only one wish on my mind
たった一つ 願いがあるの
When this day is through I hope that I will find
今日という日が過ぎたとき、叶うなら
That tomorrow will be just the same for you and me
あなたと私にとっての明日が、今日と全く同じでありますように
All I need will be mine if you are here
私が必要なものは全てあるの あなたがここにいれば
(引用:Top of the world/The Carpenters)
(拙いですが、和訳をさせていただきました。不備などあればご指摘願います)
今日と同じ明日が来なかった長谷川家にとって、あなたがここにさえいれば何もいらないと何度心の底から願っただろうか。このフレーズを見つけた瞬間、「さくら」の様々な場面を思い起こして、目の周りがじんと熱くなった。
西 加奈子さんはこれも折り込み済みだったのだろうか。
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