僕の人生20年の歴史
おはようございます、こんにちは、こんばんは。某大学の陸上競技部で学生トレーナーをしています、出藏と申します。
この記事を見つけてくださり有り難うございます。できれば最後まで読んで頂けると嬉しいです。今まで書いた記事の数倍の量書いてます笑
スポーツ大好き少年
僕は小さい頃からずっとスポーツをしていました。色々やらしてくれた親には本当に感謝してます。もう感謝しきれないですね。おかげでスポーツが大好きになりました。
保育園に通いながら、毎週日曜日に相撲クラブで相撲を習っていたり、器械体操を習ったりしていました。相撲は小学生に上がると同時に辞めちゃいましたが、相撲で得た経験や学びはあまり覚えていません。すみません。日本の古き良きとか全く分かりませんでした。ただ、挨拶と礼儀は大事というのは今になれば分かります。
相撲の他にも跳び箱が好きで、跳び箱がやりたいがために器械体操を始めました。なんで跳び箱をやりたくなったのかというと、筋肉番付みたいなテレビ番組あったじゃないですか。そこで跳び箱二十三段跳んでる池谷さんがめちゃめちゃにカッコ良かったからです。それに影響されて保育園での体育の時間で跳び箱があって、死ぬほど飛んでました。いやー楽しかったなあの時は。
それでお母さんにもっと跳び箱を跳びたいと駄々をこねて、近所の体操クラブで器械体操を始めました。器械体操っていろんな競技があるんですよね。跳び箱はもちろんのこと、マット、鉄棒、トランポリンなどなど。もうどれもが楽しくて、一時期体操の選手になりたいとまで思ってました。それくらい体操が好きでした。
小学生編
小学校に上がってからまたいろんなスポーツをやりましたね。一年生の頃に野球を初めて、小学校二年生になったら水泳を初めました。小学生の時にスポーツは三種目のスポーツを同時にやってました。今思うと忙しい小学生時代だったなと思います。
当時の僕は死ぬほど負けず嫌いで、勝負に負ける度にボロボロ泣いてました。野球の試合に負けたら泣いて、水泳の大会に出て負けたら泣いて、体操の大会でも負けたら泣いてという。とんでもない泣き虫モンスターだったわけです。負けず嫌いなのは今も変わりませんが、当時ほどのすぐ泣くような勢いはありません。だいぶおじさんになりました自分も。
小学生の時は野球にどハマりしていました。なんで野球にどハマりしたかと言いますと、お父さんとお兄ちゃんの影響でといえばそれで終了なわけなんです。よくお父さんとお兄ちゃんとでキャッチボールをしたりとか、カラーボールとカラーバットで野球ごっこをしたりしていて、それがすごく楽しかったんですよね。それで近所の野球チームに入って野球をする運びになったわけです。跳び箱の時とパターンと似てますね。それで野球をやりはじめたらまー楽しくてですね、特にバッティング練習が本当に楽しかったです。もう、土日の練習の日が待ち遠しくて仕方がなかったです。何か一つのことが好きになると、それにつられて他の事も好きになるあの現象はいったいなんなんですかね?なんか、ある歌手の一曲にめっちゃハマったとするじゃないですか。そうするとなんか他の曲もすごくいい曲に聞こえません?なんかその現象と似てる気がします。
話それちゃいましたね、戻します。
そうこうして野球の全てにどハマりしてしまいました。今まで体操選手になりたいと思っていたのに、いつの間にか夢がプロ野球選手になりたいになってました。こうやって夢がコロコロと変わるってありがちですよね??そうですよね?
そんなこんなで野球選手になりたいと思って野球をやっていまして、結構自信に満ち溢れていたわけです。対してうまくもないのにね〜。謎の自信がありました。ある意味幸せな奴。ほんっとにチームの中で自分が一番うまいって思ってましたからね。ただ、同じ学校に自分より上手いやつなんてたくさんいるわけですよ。上には上がいるってやつです。もう完全に井の中の蛙。謎の自信がだんだんなくなったいくわけです。それでも中学まではプロのなるために野球を頑張ってきたんですよね。全ての習い事は野球をうまくなるためとまで思ってました。水泳と器械体操は野球をうまくなるためにやってる、的な感じです。
中学生編
中学になって、僕はシニア野球を始めます。あ、シニアっていうのはおじいさんおばあさんの方じゃないですからね。
わかってますよねすみません調子乗りました。
中学で硬式野球を初めて、よりレベルの高いところで野球をしようと思って軟式から硬式に思い切って挑戦したわけです。最初の方はさすが体育会系だなと感じました。バリバリの年功序列でなかなかに厳しかったんです。野球あるあるですよね。一年生なんかに人権は無い的な感じです。でも、多分自分が入ってたチームはそこまで厳しい感じではなかったように思います。他の友達の話を聞いたら、なんか申し訳なくなるような感じでした。
そのチームでまず一年生の中でレギュラーになりたいと思って、もう必死にアピールしましたね。人一倍声を出して、誰よりも多く走って、練習では一切手を抜かないで、ひたすらレギュラーになるためだけに練習をしていました。そのおかげで、自分はなぜか副キャプテン的な立ち位置になってました。理由は簡単。
声がデカいから。
結構あるあるだと思うんですよね。野球で死ぬほど声でかいやつが実力以上に評価されるみたいな。僕は完全にその部類だったと思います。周りから見たらあまりいい気はしないかも。でも声を出してたおかげで、僕はレギュラーになれたんですよね。もちろん要所要所で結果を出していないと評価されないのでほんの少しだけ実力はあったと思います。
公式戦で二番セカンドで試合に出ることができたんです。もう僕は幸せでした。しかも二本ヒットを打って一打点をあげたんですよ。もうマジで出来杉くんでした。
暗黒大陸編
ここが僕のピークでしたね、その試合が終わってから緊張が解けたのか、腰を怪我したり、風邪をひいたりして、練習に行けなくなりました。腰の怪我は腰椎分離症と言われました。2ヶ月くらい安静にしてくださいと言われました。もう絶望ですね。せっかくレギュラーを取ったのに、それが水の泡。復帰してもレギュラーは取られていました。負けず嫌いな僕ですが、なぜか闘志が漲ってこない。やる気が出てこない。モチベーションが上がらなくなってしまいました。
怪我が治っても練習に復帰してもミスばかり。守備が結構得意で練習でほとんどミスをしなかったのに、捕球も送球も全然うまくいかない。だんだん野球がつまらなくなっていきました。極め付けに肘を怪我して、完全に折れたわけです。
もうこれ以上野球をやっていたって、何も得るものはない。辞めようと決意しました。辞める旨を監督に伝えました。
自分が辞めるということがメンバーに伝わっていく。悔しいより、情けない。自分が情けなくて仕方なかった。楽しかった野球がつまらなくなって、つまらなくなったからといって野球から逃げた自分が情けなくて仕方なかったです。もう仲間にも合わせられる顔がないと、そう思ってたんですね。
そんなことを感じていた時、一本の電話がなったんですね。その電話は親友とも呼べる仲間からの電話でした。内容はあまり覚えてはいないけど、電話をくれたことがすごく嬉しかったのを覚えてます。でもそれと同時に申し訳なさがこみ上げてきて、落ち着いて話すことができなかったような気がします。あまりこの時の記憶がないんですよね。消したい記憶だからかな。多分説得してくれたような気がします。
でも、電話をかけてくれたことは覚えていて、それは嬉しかったし、申し訳なかったなと思ってますね、、
でももう一度野球をしたいと思えず、そのままやめていくわけです。
クズと言われても仕方ないですね。親友を裏切ったって思ってますから。
陸上に目覚める編
もう野球の無くなった僕なんてカスみたいなもんでしたね、なんの取り柄もないただの中学生です。勉強もできなければやりたい事もないし、何もしない期間がむず痒くて仕方なかったですね。
そんな中、保育園の時から一緒だった幼なじみも自分と同じような感じで野球を辞めていました。その幼なじみは新しく陸上競技を始めていました。その幼なじみに陸上始めようよと言ってくれまして、何もなかった僕は何かしたかったんですよね。幼なじみもいるし、やってみようかなと思えたんです。今思えば、本当に誘ってくれて感謝しかないですね。また夢中になるものを僕にくれたのですから。
中学二年生に上がる前に、陸上の練習を体験するわけです。野球やってた時に馬鹿みたいに走ってたので、体力には自信がありました。実際に走るのは嫌いじゃなかったし、むしろ好きだったまであります。だから、陸上の練習はキツかったけど楽しかったんですよね。そこからもう安定にどハマりするわけです。陸上の何にどハマりしたかというと、練習すればするほど、前の自分の成長がタイムに現れるからですね。自己ベストが出た時の喜びは、今までにないものでした。成長が肌で感じることができる。こんな素晴らしい競技は他にないと思いました。
こうして何もやることがないただの中学生から、陸上が大好きな中学生へと変わることができました。
ちょっと休憩編
まだ中学生のところですが疲れたんでこのくらいにします笑笑
すみません笑
また今度この続きは書きたいと思います。
次回お楽しみに。シーユー。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?