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諸法無我と私の存在

仏教用語に「諸法無我」という言葉がある。
すべてのものは因縁によって生じたもので実体性がない、という意味だ。

今回のnoteでは、人間存在を構成する肉体と精神についてこの言葉をヒントに考えていき、最後に私の考えを記したい。

肉体における「諸法無我」

生物は外部から物質を取り込み、肉体を構成する。
同時に古くなったパーツを壊して排出する。
構築と破壊の中でバランスを保つこの状態を「動的平衡」という。

物質の流れとして捉えると、私たちの肉体は「淀み」であるように思える。私たちの周りの炭素の循環を例を出そう。

畑で育つ小麦は二酸化炭素を取り込み、光合成をする。
収穫されると、パンへと加工され、私たちの食卓へのぼる。
食べたパンは分解されグルコースという体内のエネルギー源の分子になる。
グルコースは分解されながらエネルギー通貨である32分子のATPを作り出し、二酸化炭素のみが残る。
そして呼吸により、二酸化炭素は空気中に排出される。
二酸化炭素は空を漂い、また光合成によって植物に取り込まれる…。

このように地球、ひいては宇宙を構成する物質は流れ、時に淀み、循環していく。
私たちは確固とした存在としてこの世界に存在しているのではなく、単なる物質の淀みにすぎない「諸法無我」の存在である。

精神における「諸法無我」

私が自我だと思っているのは、私自身がゼロから生み出したものではなく、他人との関係性の中で生まれてきた意識である。

私が口に出す言葉も、このnoteに綴る文章も、私の今までの関係性や経験、読んだものや知識の中から導きだされた言葉である。

過去の関係性や知恵から作り出された人間の精神は「諸法無我」であると言える。

諸法無我的な生き方とは

全てが因縁によって生じるということは、すなわち、人は一人では生きられないということを示している。
それならば、自分の周囲の存在そのものが自身の一部である、という考えをもって人々と接していくべきではないのだろうか。

私が家族・友人をはじめ、周囲の人々との関係性によって形作られたものであるように、その人々もまた私との関係性の中に形作られている。
つまり「私の存在」とは、私個人であり、また同時に他者でもあるのだ。
そしてその逆も然りで、「他者の存在」とは、私でもあるのだ。

そのため私は、人としてありたい姿を見せてくれる他者との関係性の中に身を置くことを目指していきたい。
また同時に私は他者に、安心できたり喜びを得れたりするような関係性を提供できるように心がけたいと思う。

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