わかりあうって地道な作業だ~わたしたちは銀のフォークと薬を手にして
じんわりと、穏やかに。読み終えて、幸せってこういうことだと思った。
島本理生「わたしたちは銀のフォークと薬を手にして」を読んでの感想。
自分を抑えがちな優等生気質の知世と、年上で誠実だけど病を抱える椎名さんを軸に、知世をとりまく友人や家族の話を挟みながら物語は進む。
ジャンルとしては恋愛小説だけど、あらゆる人との人間関係、自立した大人のあり方を丁寧に繊細に描いている作品だと感じた。
他者とわかりあうとはどういうことか。大人になるとはどういうことか。自分も相手も大事にするとはどういうことか。それは、地道で一歩ずつの作業なんだと教えてくれる。
他人とわかりあうってとっても難しい。だからちょっとでもわかりあえただけで、この上ない喜びであり奇跡である。
椎名さんの病が、わかりあうことを困難にしているんだけど、でも知世の「わかりたい」という思いが、椎名さんのためらいをこじあけていく。
他人とわかりあうために土台になることって、やっぱり「わかりたい」っていうシンプルな欲求なんだよね。本当にはわからないけど、「わかりたい」「知りたい」という心構えって相手に伝わるもので、相手の殻を破っていく。
「世界が暮れなずむ。なぜか、絶望みたいだ、と思った。なにも欠けたものがない。揺るぎなく、無理もなく、満たされて、だけど私たちは確実にいつか死んでゆく。それを自然と想像できるくらいに幸福だと気づき、希望とはなにか足りないときに抱くものだと悟った」ー本文より
いまが満タンでおなか一杯で、これから欠けていくだろう。でも欠けていくことが悲しいとかさみしいとかではなく、それすらもいとおしい。
もうこれ以上なにもいらない。それを絶望と呼び、幸せと呼ぶ。
食べることが好きな人は、それだけで幸せ
そういえば、知世と椎名さんは、しょっちゅうおいしいものを食べている。冒頭からして、椎名さんの部屋でおいしいものを食べている。
わたしは、食べるという行為そのものがエネルギーが高い行動であって、食べることが好きっていう人は、それだけで人生の満足感や幸福度が高い人のように思っている。
食べることに価値を見出している人って、食べているときに「おいし~い」とそのまま味わい尽くしていて、ありのままを肯定する力が強いと思っている。高望みをせず、小さな幸せを見つけられるという点においても、幸福度が高いような。
私なんかは、食事していながら食べ物の味なんかあんまり味わっていなくて、全然違うことを考えている(仕事のこととか、だれそれの言動とか)。
子供の頃も食が細くて、食事そのものが恐怖だったりしたので、なんとも満たされないかわいそうな子だったと思う。
それでも人並みに食べることが幸せと感じたり、だしの味が染みるわ~とか、「きのうなに食べた?」のシロさんの料理が本当にいいなぁって思えるようになったのは、わたしも小さな幸せを感じられるようになったんだな~。
いまでも、思考することに頭がいっぱいなときは食事がおろそかになってたりして、自ら不幸せな方向に足を踏み入れてるような気がする。
いままたそういう状況に陥りつつあって、忙しさもあって思考に過集中してるな、とぼんやり自分を眺め見ているところです。(こうやって食事の大切さを理屈で腑に落とすタイプ)
さぁ、きょうはなに食べようかな。