「暗いところを見ようとしない人」も、悪を支えてしまう:『テスカトリポカ』
第165回(2021年上半期)直木賞受賞作の『テスカトリポカ』、
このツイートを読んで気になって、
(まあちょっと「超異常暴力小説」と謳うのはどうかなと思ったりもするんですが)
試し読みしたらまーーー引き込まれて引き込まれて、結局電子で買って読んじゃいました。
560ページと、なかなかボリュームがある本なんですが、読みだしたら止められず、家事も仕事もほっぽって2日で読み終えました。今年読んだ本の中で2番目に良かったです(1番目は『正欲』。そもそも私はあんまり冊数読むほうじゃないのであれですが…)。
この(↓)記事で紹介されていた審査員の議論の内容、激しい暴力表現がある本作について「『こんな描写を文学として許してよいのか』『文学とは人に希望と喜びを与えるものではないのか』といった意見があがった一方、『描かれたことは現実世界のこと。目を背けてよいのか』との意見もありました」に思うこともありまくりなので(「何言ってんじゃ」という方向で)、
関連するおすすめ作品も紹介しつつ、ちょっとだけ設定のネタバレありで、感想を書いていきたいと思います(ほかにもつぶやき的に書きたい感想があるので、あと、なんか書きたかったことが全然入れられてない気がしたんで…、また今度記事を書くかもしれません)。
ネタバレ嫌いな方は、ぜひ事前情報なしで読んでみてください。そのほうがめくるめく展開を楽しめると思いますので!
ナワトル語・スペイン語・インドネシア語の響きの中に漂う体験は、言語クラスタ(?)の皆さんにもおすすめです。
試し読みはこちらからできます↓(100ページ以上読めるという太っ腹さ)
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臓器売買×アステカ ってどうしたら絡みますの?
私、前にメキシコの博物館で、マヤ文明の遺跡にあったという「チャクモール」の像を見たことがあります。
チャクモール(Chacmool、Chac-mool、時折チャック・モールとも)とは、古典期終末から後古典期にかけてメソアメリカ全域において見られる、仰向けの状態でひじをつくような姿勢で上半身を起こして、顔を90度横へ向け、両手で腹部の上に皿や鉢のような容器をかかえてひざを折り曲げている人物像のことをいう。チチェン=イッツアの「戦士の神殿」のもののほか、後述するようにメキシコ北西部からホンジュラス、エルサルバドルまで広い範囲の遺跡で確認されている。 チャクモールは死んだ戦士を象徴し、神へいけにえなどの供物を運ぶ存在と考えられていて、チャクモール像の上で人身御供の儀式がおこなわれたり、チャクモールのもつ皿の上に取り出された心臓が太陽への捧げ物として置かれたといわれる。
Wikipediaより引用。太字はけそによるもの。
この像のお腹のところ、よく見ると心臓が載せられていたという場所に跡がついてるんです。像は9世紀頃?のものだと思うんですが、21世紀になってもまだ、血の跡がわかるんですよ…。
一体何人の心臓が捧げられてきたんだろう、昔当たり前だったこと、怖!と思って観ました。
が。
この小説『テスカトリポカ』では、現在もなお犠牲になる心臓を描いているんですね。
扱われているのは、人身売買/臓器売買。
しかも、子供の。
誰かの命をつなぐために、誰かの心臓が使われる。
「お金をつくるために腎臓を片方売る」っていうのは、漫画とかで時々見ますが(『来世は他人がいい』とか)、心臓を売る描写ってなかなか見ません。
心臓を売るということは、つまり誰かが一人死ぬ、ということだからです。
不可逆的な犠牲。
それでも、表世界に出てこないマーケットで、心臓はやりとりされます。
そこに、大金を払う人がいるから。
何億払ってでも助けたいと思われている命と、持ち主の意志と関係なく売り物にされてしまう命。
実は全然平等なんかじゃない、命。誰かを優先するために誰かが犠牲になることは必要だ(あるいは仕方ない)、と考えられている世界。
それって、昔から今までずっと変わってないですよね?
・・・というのを、資本主義に支配された「今」だから成り立つ犯罪と、アステカの文化を結び付けて語るのが、この本なのです。
自分は悪人じゃないと思ってる人にこそ、読んでほしい本
記事の冒頭で少し触れたように、直木賞の選考会では「こういう暴力表現がある作品を文学として評価しちゃっていいのか?」という内容の議論があったようですが、
私は、(前から度々書いてるように)自分や世界の暴力性に気づくきっかけがないことの方が、よっぽど危険だわ!!と思います。
もちろん、世の中の暴力表現(あるいはエロ表現)の中にはただ「過激さ頂上決定戦」みたいに並べられてるなーと感じるものもあり、そういうものの中には現実の人がどう傷つこうか関係ないわ、とにかく面白けりゃいい、ってものもあって(例えばNetflixの『全裸監督』とか)私もこの手の作品には怒りを感じるのですが、本作はそういうタイプの作品じゃないです。面白いことはもちろん大事だけど、でもそれだけでいいんだろうか?という問題意識を持って書かれてます(これは逆も大切ですよね、たとえ書き手に問題意識があっても、面白くないと、遠く・広く届けることは難しい。しっかり面白い作品を、問題意識を持った方がつくってくれる、ってことに私は喜びを感じています)。
インタビューで、作者の佐藤さんは次のように語られてます。
それこそ80年代ならシュワルツェネッガーとかスタローンの映画をみんなが単純に楽しんでいましたが、今はもう状況が違いますよね。パンデミックにしてもそうだし、アメリカのトランプとバイデンの選挙で起きたこともあるし、アクションシーンだけで楽しませるフィクションは、社会に対する役割という点ではどうなんだろうと感じます。
エンターテインメントとしてお客様にはジェットコースターに乗った気分で楽しんでもらっていいんですけれど、書くほうはもうちょっと問題意識を持っておかないと、やりがいがないというか、なんのためにやっているんだろうとは思います。
文春オンラインの記事「『人間は“生贄”を選びたがる。それは五輪でも』新直木賞作家・佐藤究が凄惨な暴力描写に込めた思い 『テスカトリポカ』直木賞受賞インタビュー」より引用
そしてこの本で私が好きなところは、「自身の消極的な暴力性」についても考えさせられるところです。「知らずに暴力/悪に加担しちゃう可能性」について。
映画『わたしは金正男を殺してない』は、「液体を人の顔にくっつけるどっきり企画に協力して」と言われてただ指示に従っただけで、それが「毒物による金正男殺害」に繋がってしまっていた、という女性たちを追ったドキュメンタリーですが(この記事で少し感想書いてます)、本書でも、分割された犯罪計画のひとかけらを、まるで犯罪と知らぬうちに担わされてしまう女性が出てきます。この本で描かれているんですが、今の時代の組織だった犯罪って、感情と切り離されていることもあって(怨恨とかが出発点になってないので、迷いがない)もうとにかく効率が良いので、利用できるものはなんでも利用しちゃうんですね…!
もちろん、知らずに手伝わされていた彼女を全面的に責めることはできないんですけど、なぜかやたらと高い給料や、組織の代表にした業務改善の提案のうち一部にはまったく回答がもらえないことなど、「おかしくない?」と思うポイントは少しずつありました。
毎日世の中の悪い面ばっかり見てると疲れちゃうしうんざりしちゃいますが、でも「こういう可能性もある」ってなるべく知ろうとしていかないと、被害者になるだけでなく、加害者だったり加害者の協力者になっちゃうんだよな…と…改めて思いました。
作者の佐藤さんも、こういう話をされてます。
少しメッセージじみたことを言うと、麻薬くらいいいじゃないか、誰にも迷惑かけないんだし、という論調がありますよね。でもその麻薬はどこから来て、支払ったお金がどこに流れているか、一度考えてみた方がいい。麻薬戦争の悲惨さを知ることは、薬は体に悪いというよりはるかに抑止効果があると思います。
好書好日の記事「佐藤究さん『テスカトリポカ』インタビュー 暗黒の資本主義と血塗られた古代文明が交錯する、魔術的クライムノベル」より引用
麻薬の購入に限らず、世界にはいっぱいそういうことはありますよね。
例えば、「楽しんでその仕事をしている人もいる」といって肯定される、AVの仕事。
実は田舎の山奥で撮影をしてAV女優が途中で逃げられないようにしていたり、撮影の過程でひどい怪我を負わされていたり、避妊の対策がちゃんと取られていなかったりする。
(そういう状況について知るためのおすすめマンガと本↓)
(※ただし特に↑この本は読んでてほんとに苦しくて…心がぐったりしてるときには絶対やめておいてください…)
でも、観る人がたくさんいる限り、搾取する状況はなくならない。
南アフリカの「赤ちゃんライオンと写真が撮れる」サービスを行っている施設の中には、そのライオンが成長した際にハンティングするアクティビティをメインの収入にしているところがある。ハンティングする人は素人なので、ライオンの苦痛は考慮されずに何度も傷めつけられる。
でも、狩りたいと思う人が訪れ続ける限り、その施設はなくならない。
(私はこの情報を、↑のクーリエで読みました。そのときはKindle Unlimitedに入ってたんですが…期間限定かも。他のテーマの記事も、『テスカトリポカ』に通じるところが多かったです、優秀な犯罪者は優秀なビジネスマンと紙一重だって話(マフィアの中には最近MBA取ったりしてる人もいるらしい)とか、犯罪とインターネットの技術向上の関連の話とか)
アメリカの大戸屋の定食はべらぼうに高く感じるけど、それはアメリカが高いんじゃなくて日本が安いから。人件費が不当に削られているからで、消費者の給料が安すぎるから。
世の中は基本的に間違っていることの方が多いし、自分が倫理的に正しいと感じることを選び続けるには経済力も必要となるので、いつもベストな道を歩くことは難しい。でも知り続けようと努力しないと、知らないことは選択できないですよね。疲れちゃうけど、「おかしくない?」って感じるセンサーを磨くことは、あきらめたくないなあ…と思います。
まだ、それができる場所にいる間は…。
(つまりですね、『テスカトリポカ』では、もうこれはどうしようもないな、悪と距離を置いて生きたいって気持ちの入る余地が剃刀1枚分たりともないな、っていう究極の荒野も描かれてるわけなんですよ…)
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