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患者さんと共鳴するとき。生命のひびき。

養老孟司さんの、「ものがわかるということ」という本を読みました。
まだざっと目を通したくらいなので、もう一度ゆっくり味わいながら読んでみたいと思っているところですが。

本の最後の方で、「わかるとすればそれはもう共鳴しかない」と養老孟司さんが仰っていました。
これだけ読んでも意味がわからないかと思いますが・・・

この『共鳴』という言葉に、妙に納得しました。
僕も整体をしていると度々こうした経験があります。言葉で表現するのが難しかったのですが、この『共鳴』という言葉にピンと来ました。

僕が患者さんを指圧したとき、これだ!という瞬間があります。いわゆる、「ツボにはまる」っていうやつです。
このツボにはまった瞬間は、実は押してる僕もとても心地が良いのです。
「あっ、これ絶対気持ち良いやつやん」って思って患者さんに尋ねてみると、案の定「気持ちいいです」って言ってもらえます。

押してる僕も押されている患者さんも心地が良い瞬間がある。
度々こうした現象があるのですが、これが養老孟司さんが言う『共鳴』ではなかろうかと。
この瞬間だけは、僕は患者さんのことが「わかった」と言えるのでしょうね。

人と人はわかりっこない、というのが養老孟司さんの主張です。
一人一人価値観が違うのだから当然です。意識の部分はみんな全く違うものなのです。大脳と言っても良いかもしれません。
一方で人間には本能的な部分も残っています。大脳辺縁系と呼ばれる部分以外のところ。これはすべての人に共通しているところだと思います。

ここは、意識(大脳)の及ばない領域です。自分の意志で心臓を止めたりできないですよね。生命活動の根本と言ってもいいかもしれません。だからこの領域は言語でも容易に理解することはできません。言語は大脳の機能ですので。
例えば、お腹が空いた感覚を言葉で他人に説明してみてください。たぶん曖昧な表現しかできないはずです。生命活動の感覚は言語では理解できない(記述できない)のです。

で、ちょっと話は変わりますが、増永静人さんという方がいました。指圧の大家と呼んでも良いかと思います。もう亡くなられていますが。
増永静人さんが同じようなことを主張されていたのです。
指圧というのは大脳ではなく、小脳・間脳で行うのだと。大脳をもって悪い部分を見つけて攻め立てるのではなく、本能的な感覚で指圧することで生命のひびきを引き起こすことができるのだと。
確かこんな感じでした。

僕は5年前くらいに増永静人氏の本を読んで、自分なりにこうした意識で整体を続けてくる中で先程の『共鳴』を感じていました。もしかすると、これが増永静人の呼ぶ生命のひびきだったのかもしれません。
なんだか点と点が繋がったような感じです。

大脳は万人が異なった構造をしているのですが、本能的なところ、生命的なところは誰もが共通しているはずです。そこは言葉でお互いに理解するということはできません。
もっと感覚的で、生命的で、本質的なもので、それをお互いに理解するのは『共鳴』であろうと養老孟司さんは言ったのでしょう。増永静人氏は『生命のひびき』と呼んだのでしょう。おそらく。

僕もついにこの『生命のひびき』を感じるところまで来たのかもしれません。知らんけど。
僕は僕なりに、この辺の探求をしていこうと思います。

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