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飲み屋のおばちゃんと話して思った、勉強する意味
「わたし頭悪いから」
「わたし勉強できないから」
今週行った飲み屋のおばちゃんが繰り返し言っていたセリフです。文面だけで見ると、自虐的な、何かに後悔しているかのような印象を受けるかもしれません。でも、この後に続く言葉と、この方の話しているトーンと、表情を見るとまた違った印象になります。
この方は、あくまで明るい声で、そして誇らしい顔でこのように話していました。
「わたし頭悪いから、目の前のお客さんが笑顔になれるように頑張ることしかできないの」
「わたし勉強できないから、目の前の子供達にとって勉強になるようなこと言ってあげられないから、楽しませてあげることしかできないの(以前バスガイドとして、修学旅行に同行した経験を話して))
・・・。僕は、
「それでええよなあ!!」
って思いました。
目の前にいる人のために、一生懸命貢献する。その姿勢が何よりも尊いのであって、それに比べたら勉強ができることがどれだけ重要な意味をもつでしょうか?
極端な話をしたら、「勉強できるけど、自分のことしか考えていない人」と「勉強できないけど、他人に貢献できる人」どっちが多くの人を幸せにできるでしょうか。そしてどっちの方が自分が幸せになれるでしょうか?当然後者だと思うのです。
「他人のために」「誰かのために」という気持ちが0、もしくはマイナスだった場合、”勉強ができる”という武器は無意味、もしくは他人を貶める凶器になり得ます。
勉強ができることは「他者貢献」の気持ちがあって初めて意味を成すのではないかと改めて感じたところでした。
勉強に限らず、能力全般に言えることですよね。どんな能力も、その人の持ちうる人格によっては救いの手にも凶器にもなり得るのです。
そうであれば、教育においてどちらを大切にするかは明確です。もし、今の教育が人格の発達を後回しにした、能力育成重視の方向に進んでいるのであればそれは危惧すべきことだと思います。
・・・ほんっとうに・・・いいじゃないですか。勉強ができなくても。能力が低くても。誰かのためを思い、行動できる人間になれれば。
それが水商売であれ、何であれです。
それが個人にとっての幸福にも、社会にとっての幸福にも繋がると思うのですが、どうでしょう??
それなのに、どうして人は人のことを職業や社会的ステータスで判断するのでしょうかね。悲しいですね・・・。
※自戒を込めてこの記事を書きました。