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凡人は変化を望んでないのに、天才達がリードしてくる😢


 

令和の日本型教育における学びのイメージ

 これは、今後教員がどんな授業をしていくべきかを文科省が示したものです。このような授業を通してどんな子どもを育てるのかというと、右下に書いてあるような「自分の良さや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手になれるような子ども」です。

とても素敵な子ども像(大人像?)だと思います。こんな人たちを育てられたら、日本はもっともっと素敵な国になると思います。ぜひ目指したいなって思います。


 ただ、一方でこんな懸念もあるわけです。どれだけの子どもがここにたどり着けるのか。

 もっと言えば、どれだけの大人がここにたどり着けているのか。っていう懸念です。

 少なくとも僕は自信がありません。でもそんな僕でさえ、恵まれた家庭環境、学校環境、職場環境、様々なラッキーに恵まれた方だと自負しています。この環境で以上のような人物になれないのであれば(僕の生まれ持った能力がめちゃくちゃ低いのかもしれませんが💦)、かなり厳しいなと感じます。

 つまり何が言いたいかと言うと、以上のような子どもになるためには「生まれ育つ環境」「生まれもった才能」のような、子どもや教師にはどうしようもない部分が必須となってくるのではないかってことです。

 おそらく、この図を作るような優秀な人は「生まれ育った環境」も「才能」も、もっているのでしょう。だからこういった理想をもてるのだと思います。


とはいえこれはあくまで、目指す方向性です。だから、その方向性としてはとっても素敵なものであり、目指していきたいなって思っています!!



 で!!僕が本題として提示したいことがあります!(まだ本題じゃなかったの??)

 学校現場を例に、一部の環境にも才能にも恵まれた人達が仕組みを作っている例を出しました。この事例を通して、提示したいのが

 天才達が世の中をリードすることの残酷さです。

 それによって、天才のスタンダードが一般人のスタンダードになりつつあるような気がしていることに対するしんどさです。

 現代の風潮でもある「自分の好きなことで生きていく(自由に生きていく)」一つとってもそうです。

 ほとんどの人たちにとって自分の好きなことで生きていくことは非常に厳しいものです。自分の信念を貫くと言うことは、孤独に耐え続けることです。負けずに自分を磨き続けていくことです。僕にはとてもできないです。

 
 過剰なルッキズムもそうです。

 どんどん見た目のスタンダードが天才に寄っているような気がします。そのスタンダードに至るにはかなりの努力が必要なはずです。

 
 ほとんどの凡人達は変化なんて望んでないのに、一部の天才達が世の中をどんどん変えて、みんなを引っ張っていっちゃうものだから、凡人はついていくのに必死です。

 それで疲れちゃうんでしょうね・・・。


  くう。この世の中で幸せに生きるためには、欲を捨てるか、自分が引っ張る側になるしかないのかなあ??

 「perfect days」か「アベンジャーズ」しかないのかなあ。
 
  非常に悩ましい、悩ましいですね〜〜😢



 頑張って生きていきましょう!!笑

 

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