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 学習規律なんてなければないほど良いと思う今日この頃


 「授業を受けるときは背筋を正す」「ノートと筆記用具は机の左上に置く」「友達が発表するときは友達におへそを向ける」「挙手をするときは天井に突き刺さるくらいまっすぐ手をあげる」「発表するときは『まず〜で、次に〜で、最後に〜』というように話す」といった類の授業内でのルールを学習規律と言います。僕はこういった規律は無ければ無いほど良いと思うのです。今からそう思うわけを説明します。

  一つ目の理由は、「学習規律を守ること自体にエネルギーを取られて、学びへ向かうエネルギーが奪われる」ことです。例えば発表場面。発表した時に話型をうまく使えず、それに対して「まずは〜というように話しなさい」と指導されたらその児童は次からそれを意識して発表しなくてはいけなくなります。すると、「アウトプットする」という最も大事な学習活動へ割くエネルギーを「話型を使う」ことに割かなくてはいけなくなります。その結果、発表することを躊躇うようになるかもしれません。学習規律を過剰に守らせることで、学びの成果も、学びに向かう意欲も減じさせてしまうかもしれません。

 二つ目の理由は、「学習規律を過剰に強調することは、学び手に対する評価を歪める」ことです。研究授業の事後研などで、よく「先生のクラスは姿勢が良いね!」「手の挙げ方が良いね」「先生のクラスはおしゃべりが多いね」といった評価が下されることがあります。ただ、そういった姿が本当に学びてに対する評価として妥当なのでしょうか?姿勢が良いから友達の話をしっかり聞いていると言えるのでしょうか?おしゃべりが多いから授業に参加していないのでしょうか?僕はそうは思えません。姿勢が良くて、おしゃべりをしていなくてもぼーっとしている児童もいます。逆に姿勢が悪くても、頭をフル回転させて友達の話を聞いている児童がいます。おしゃべりの内容が授業に関するものであれば、その児童は授業に主体的に参加していると言えると思います。それなのに、学習規律が守れていない児童を過剰に注目し、叱りつけることは学びへの意欲を奪ってしまうかもしれません。

 三つ目の理由は、「そもそも学びに規律なんて存在しないのに、みんなに画一的な規律を求めることは無理がある」ことです。一人での学びを想定した時、「おしゃべりしちゃいけない」だとか「姿勢よくしないといけない」なんて規律はないはずです。そもそも自分に合った学び方は人それぞれです。ただし、学校は集団の場であるため学習規律が必要になります。だから、学習規律は教師の教えやすさ、集団としての児童の学びやすさを重視したものであり、そこに合っていない児童は学びへの意欲を失ってしまうことになります。

 以上の三つに共通することは、学びへの意欲を減じさせ、子どもをお客さん状態にしてしまうことです。子どもの主体性を奪ってしまうことです。

 これらの理由から、僕は学習規律は無ければ無いほど良いと思っています。

 

 ただ、誤解してほしくないのは「学習規律が無ければ無いほど良い」と主張しているだけで、「学習規律なんて要らない」と言っているわけではないということです。

 授業が集団で行われる以上、規律は必須です。また、こういった規律は繰り返し指導することで無意識に行われるようになり、だんだんと規律遵守にエネルギーを使わなくてよくなります。だから、4月などでは例え学習内容そのものの狙いの達成が疎かになってでも、学習規律を定着させることは必須だと考えます。

 よって、「学習規律が少ない状態」は「学習規律を徹底した先」にあるとも言えるかもしれません。

 
 

・・・なんて偉そうなことを言っていますが、僕は2年連続で学級をわちゃわちゃにしてしまった教員です。僕の失敗パターンを分析してみると、「理想の授業はある。だけど、その到達のためにどんな学習規律が必要なのか知らなかったパターン」だと言えます。

 このパターンに陥ると、僕のように学級がわちゃわちゃします。学力もつきません。でも僕の失敗パターンは分かりやすいので、改善ができます。


 問題はもう一つの失敗パターンです。ズバリ、「理想の授業が形になっていない。だからとにかく一般的に言われているような学習規律を徹底させるパターン
」です。
 
 このパターンを失敗と捉えない人もいると思います。ぱっと見では授業が問題なく進んでいるように見え、学力も問題なくついているのですから。でも、僕個人としてはずっと違和感を感じる授業風景だったんです。

 その違和感を一言で言うと、「授業の主人公が子どもじゃない!」になります。先生の思った通りに授業が進み、先生が望んでいない子どもの疑問や意見は排除される。先生が教えやすいように授業がデザインにされているような授業は、子どもをどんどんお客さん状態、受け身な状態にしていくと思うのです。

 「全ての子どもを人生の主人公に!」をモットーに教員をしている僕としては看過できない結果です。学力がつかないことよりも、問題だとさえ思います(失敗しまくっている僕が言っても説得力ないと思いますが💦)。

 
 よって理想なのは、「理想の授業がある。その成立のためにどんな学習規律が必要か知っていて、それらを徹底させられる」ことだと思うのです。

 こういうことができる先生であれば、計画的に学習規律を徹底させることができ、段階的に学習規律を減らしていけるでしょう。そうすれば、徐々に「子どもが主人公」の授業が実現していくのではないでしょうか??


 僕には理想としている授業があります。僕の学校にいらっしゃる、指導教諭と教務主任がされるような授業です。どんな授業かと言うと、

 ・子どもが楽しそう!主体的である。
 ・子どもの中で勝手に疑問が生まれていく。子どもが「なんで?」「分からん!」と呟ける。
 ・先生にとって都合の良い発言だけを拾うのではなく、全ての意見が尊重される。
 ・教え合いが自然に発生する。
 ・先生自身が楽しそう!

 というような授業です。このような授業を成立させるために、僕が今年度意識して強化している規律が、

 1チャイムと同時に授業が始まる。(教師も絶対にチャイムと共に授業を終える。)
 2行動と行動の間を素早くする。
 3友達の話を復唱できるくらいしっかり聞く。
 4友達の意見に反応する。
(ここからは規律というより、資質ですが・・・)
 5友達の意見に繋げて発表できる。
 6友達の意見に質問できる。

 すると、1と3と4に関しては、こちらが何も言わなくてもできるようになりました。

 また、一部の児童ですが5や6もできるようになり、子ども同士で学びを深め合える姿も見られるようになってきました。子供達が素直に反応できるようになってきて、少しずつ理想の姿に近づいているのを感じます。(若干、わちゃわちゃしているような気もしないでもありませんが・・・。この塩梅が難しいんですよね〜)


 結局僕が主張したいことは何かというと、「学習規律を徹底するにしても、意図をもってやった方がいいのかも!」ってことです。

 ある程度経験年数が経ってきたら、「みんながやっているから」とか「学校で決まっているから」というのではなく、「自分はこんな子どもを育てたいからこんな授業がしたい。だから、こんな規律を作っていこう!」という主体的な態度でいないといけないのかもしれません。



 まあ・・・僕は経験年数少ないんだから、まずは真似しろってとこなんでしょうが・・・。

 でもどうしても、意図がない指導をしている自分が許せないんですよね〜。意図がない指導って強制・管理になりがちで、子どもの主体性を奪うことになりますから・・・。

 経験不足な分、努力します!!

 

 

 

 

  

 

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