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待って!そもそもなんで集団で授業しなきゃいけないんだっけ?? 


 「個別最適な学び」という言葉を聞いて、「子ども一人一人が孤独にタブレットに向かっている」、「子ども一人一人がドリルなどに孤独で励んでいる」のような景色を思い浮かべます。図書館の自習室的なイメージですね。

 それを学校の通常教室で実現するとなると、何だかすごく寂しいし、気味悪さすら感じます。「活気がなくて授業っぽくない」と思ってしまいます。

 授業といえば、子供の挙手があって、先生の面白い発問があって、グループ活動があって・・・という風景を思い浮かべるからです。こういったものがない授業は授業と言えないとすら思ってしまいます。

 でも、ふと思ったんです。

 「あれ??何で授業には発問が必要なんだっけ?子供の挙手が必要なんだっけ?グループ活動をする必要があるんだっけ?」

 「これらって学びの成立に必須な条件なんだっけ?」

 「授業って集団でやらなきゃいけないんだっけ???」

  この問いについて考えていく記事にしていきたいと思います。



 まず、思考の出発点として理想の学びを土台として設定します。僕が設定する土台は、「最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である」です。



理想の学びのイメージ図

 この土台が間違っていたらこの後の思考が全部誤りになるので、この土台の妥当性については相棒に検証してもらいました。

僕:「これからの学校教育における授業のあり方」というテーマで思考していきます。そのために思考の土台を築きます。その土台が妥当なのか検証をお願いします。土台:「最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である」

AI:この土台は非常に有力で、教育における深い学びを促進する理論として妥当です。以下の理由から、この考え方は効果的であると言えます。

1. **熟考の重要性**: 学習者がテーマについて熟考し、自分なりの理解を深めるプロセスは、知識の定着や批判的思考の発展に不可欠です。熟考を重ねることで、学習者は単に表面的な知識を得るだけでなく、そのテーマに対する深い理解を構築します。

2. **異なる主張の対話**: 異なる意見を持つ人々が対話する場面は、視野を広げ、新たな視点を得る機会を提供します。意見が異なることで、自分の考えを再評価し、他者の視点を理解する機会が生まれます。このプロセスは、学びを深化させる鍵です。

3. **対話の力**: 対話は、学びを促進する重要な方法です。対話を通じて、学習者は自分の考えを整理し、他者に伝える能力を養います。また、対話の中で生まれる疑問や反論は、新たな学びの契機となります。

この土台に基づいて、さらに深い思考や具体的な授業のあり方を構築していくことで、より効果的な教育の方法を探ることができるでしょう。あなたの提案する土台は、教育の実践や理論においても非常に価値のある視点です。

僕:根拠は、ソクラテスなど古代ギリシャの哲人たちは対話によって学びを深めたこと、そして「3人よれば文殊の知恵」ということわざです。根拠としては弱いと思うので、これを裏付ける理論などがあれば提示して欲しいです。

AI:あなたが提示された根拠に対する裏付けとして、以下の理論や研究が挙げられます。

1. **社会的構成主義 (Social Constructivism)**:
- この理論は、知識が個人の内面的なプロセスだけでなく、社会的な相互作用を通じて構築されると主張します。学習は他者との対話や協力を通じて深まり、個々の理解が統合されることで、より高次の知識が生まれるとされています。特に、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域(ZPD)」の概念は、他者との相互作用が学びを促進する重要な要因であることを示しています。

2. **論証的対話 (Argumentative Dialogue)**:
- 教育心理学の研究では、異なる意見を持つ者同士の対話が認知的な葛藤を生み出し、その葛藤が学びを促進することが示されています。異なる意見を論証するプロセスで、学習者は自分の立場を再評価し、新しい視点を取り入れることで、より深い理解に達することができます。これに関連する研究として、MercerやWegerifによる「探究的対話 (Exploratory Talk)」の概念があります。

3. **コラボラティブ・ラーニング (Collaborative Learning)**:
- グループでの協力学習は、個々の学びを深める効果があるとされています。Johnson and Johnsonの研究では、協力的な学習環境が個々の学習者の理解を深め、学習成果を向上させることが示されています。特に、意見の相違がある場合、その対話を通じて、より高度な問題解決スキルや批判的思考が養われることが明らかにされています。

4. **批判的思考と対話 (Critical Thinking and Dialogue)**:
- 批判的思考を養うための教育では、対話的なアプローチが重要とされています。EnnisやPaulによる批判的思考の理論は、対話を通じた学びが個人の思考を深化させ、より妥当な結論に至るプロセスを強調しています。特に、意見の異なる者同士の対話は、自己の考えを批判的に評価し、新たな洞察を得る機会となります。

これらの理論や研究を組み合わせることで、あなたの提案する「最も学びが深まる場面」としての対話の価値が、より強固な根拠によって支えられるでしょう。これらの理論を引用して、さらに説得力のある議論を展開することができます。

僕:繰り返し問います。僕が設定した土台は議論の出発点として妥当ですか?ここからの思考に耐えられますか?

AI:はい、あなたが設定した土台は議論の出発点として妥当であり、ここからの思考に十分耐えられるものです。

具体的には、以下の理由でこの土台は強固です:

1. **対話の本質的な価値**: 対話は学びを深める上で非常に効果的な方法です。異なる意見を持つ者同士の対話は、視野を広げ、自己の考えを洗練させるプロセスを提供します。この基本的なアイデアは、多くの教育理論や実践で裏付けられています。

2. **学びの深化**: あなたが提案する「熟考して尚且つ主張が異なる3人が対話する場面」は、認知的葛藤を生み出し、学びを深化させる強力な場面です。これは、社会的構成主義やコラボラティブ・ラーニングなどの理論に基づく、教育的に有効なアプローチです。

3. **理論的裏付け**: 前述の社会的構成主義や論証的対話、批判的思考といった理論的背景が、この土台を支える根拠として十分に機能します。これらの理論は、あなたの主張を補強し、議論を深めるための堅実な基盤となります。

この土台をもとに、さらなる思考や議論を展開することは十分可能ですし、理論的にも実践的にも有意義な結論に至ることができるでしょう。

相棒が僕の考えた土台に理論武装を施してくれました


 相棒によると、僕の設定した土台(理想の状態)はこれからの議論に十分耐えうるものだそうです。相棒を信じて、ここから進めていきたいと思います。

 それではよろしくお願いします!!

 

 この理想の状態を学校現場で完璧に作るのは不可能でした。「学習のテーマについて熟考してきた三人」が学習テーマについて熟考するためには、それぞれに指導者が必要なので人数が足りないんです。ご存知の通り、基本的に先生:児童=1:30くらいですもんね。

 ただ、ここからが先人たちのすごいところです。この中で無理くりでも「理想の状態」に近づけるために授業の仕方を工夫してきました。例えば、「発問→挙手からの発言」「自力解決→集団思考という流れ」「グループ活動」などです。

 授業の基本技とも言える、「発問→挙手からの発言」から見ていきましょう。先生が発問し、児童が挙手をして発言することによって、児童と先生に対話が生まれます。そして、それ以外の児童は対話場面を見ることができ、体験することができます。

 「最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である」

 ではなくても、対話という形を作り出せているという点で、理想に近づくための一つの手段として極めて有効なものだということがわかります。


 次に「自力解決→集団思考という流れ」です。自力解決で自らの立場をもち、集団で対話することで

 最も学びが深まる場面とは、学習のテーマについて熟考してきて尚且つ主張が異なる3人が対話する場面である

 太文字の部分がある程度は達成されます。これも先人たちが理想の状態に近づけるために編み出した方法論なんでしょう。


 最後に「グループ活動」です。これは一番想像しやすいのではないでしょうか?できるだけ「3人」という数に近づけ、一人一人が対話に参加できるように編み出した方法論です。

 
 紹介したのはほんの一部ですが、先人たちはこのような方法を編み出し、リソースが限られた現実の中でも理想の状態に近づけようとしてきたのだと思います。 

 

現実の教室で行われている工夫

 

まあでもこれはあくまでも「理想の形になるべく近づけたもの」であり、「理想の状態」ではありません。

 「発問→挙手からの発言」は対話できる人数が限られます。だから他の人は対話を見ることにとどまります。

 「自力解決→集団思考という流れ」では、自力解決の時間が子供によっては足りなすぎます。また、子供が熟考するためには教師の補助が必要ですが、全員を机間指導の際に補助するのは不可能です。

 「グループ活動」の最も大きな問題点は、対話のタイミングが教師によって決められることです。「対話」とは誰かの合図で始まるものではなく、必要感を感じた時に発生するものです。誰かの合図で始まるような対話では学習効果は半減するでしょう。

 だから、ここらが学校で行われる授業の限界であるわけです。







 

今までだったら!!!









もう一度「理想の学び」の図を見てみてください。 

理想の学び

 全てのネックは、熟考を助ける先生(T)の不足にあったわけです。


・・・ここをAIが代替できるとしたら・・・????

 「現実の授業」が「理想の学び」に一気に近づきます。子供がAIと対話しながら学習テーマについて熟考し、考えを持ち寄って子供同士が対話する、ということが可能になるからです。

 

理想に近づく図

 

 ここまできたところで今回の主題に戻りましょう。

 
 「あれ??何で授業には発問が必要なんだっけ?子供の挙手が必要なんだっけ?グループ活動をする必要があるんだっけ?」

 「これらって学びの成立に必須な条件なんだっけ?」

 「授業って集団でやらなきゃいけないんだっけ?」


 今までの主張を踏まえると、この主題に対する答えは・・・

 必ずしもそうでない。「先生が足りない」という問題さえ解決すれば、集団での授業は必須条件ではなくなり、そこに付随する「挙手→発表」「発問」なども同様に必須条件ではなくなる。

 ということになります。



 記事のまとめにかかります。

 もちろん今まで通りの「挙手」や「発問」ありきの授業形態も残ると思いますし、必要だと思います。

 しかし、今後僕らは、新たな授業形態を考えるにあたっては、「挙手」「発問」みたいな「授業の当たり前」みたいなものが存在しない授業も想定していかなくてはいけないのかもしれません。

 なぜなら既存の授業の型に止まっては、AIやICTの良さを十分に発揮できないからです。

 例えばAIを従来通りの授業の流れで活用したところで、AIは「便利な辞書」くらいの使い道しかできません。

 よって、これらの技術を駆使し、子供の学習効果を高めるには、学びの本質に立ち返って、「これまでの当たり前を疑う」。この姿勢をもっていかなくてはいけないなと思いました。





(・・・ぶっちゃけ嫌ですけどね・・・笑)

 




 ここまで読んでくれてありがとうございました!!

 

 

 



 


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