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幸福に辿り着きやすいけど辿り着きづらい世界


 幸福について考えていきます。

 幸福ってなんでしょうか?「僕は」2種類あると思っていて、それに便宜上名前をつけるとしたら「動物的幸福」と「人間的幸福」になるのかなって思います。

「動物的幸福」とは、外部からの刺激によってもたらされる刹那的なものです。何も努力しなくても、簡単に得られます。反面、持続性がなく、麻薬のような依存性があります。同じ刺激じゃ満足できず、「もっと、もっと」を求めるようになります。飲酒、パチンコ、ギャンブル、SNS、ゲームなどがこれにあたります。

 「人間的幸福」とは、内部から湧き出てくる持続的なものです。深い自己理解や学び、他者への貢献など、努力の先に得られます。持続性があり、努力さえすれば何度でも何度でも味わうことがあります。

 これまでは後者が尊いものだとされ、前者は破滅をもたらすというイメージでした。動物的幸福を満たすにはお金がかかりますからね。でも、今は、「お金がかかる」というデメリットすらなくなりかけていると言うのが僕の見解・・・なんて大層なものではなく、肌感覚です。

 というのも、今は安いお金でたくさんの刺激を得られるからです。サブスクに登録すれば、映画や漫画、音楽が見放題。ネットを漁れば、たくさん情報が得られる。スマホさえあれば、誰とでも瞬時に繋がれる。自己顕示欲も満たしてくれる。こんな贅沢な時代、未だかつてありませんでした。昔は王様が1人で独占していたような権益を、今や多くの人間が持っています。

 お金がなくても、幸福感を満たせる社会になると何が起こるかというと、努力や義務、責任の軽視の風潮の蔓延です。だって、最低限のお金で、1人である程度は幸せになれるんですから。僕は、このような現象を「縄文還り」と名付けました。

 縄文時代の人たちは、自分の欲求のまま生きていたと言います。食べたかったら狩に行き、眠くなったら寝て、誰かと寝たくなったら集落の誰かと寝て・・・。生活の中に義務や責任なんてものがほとんど存在しなかったのです。

 縄文時代の人々のように、努力や責任、義務に縛られず自由に生きていけて、かつ社会が回るのであればもう「縄文還り」しても良いのではないかな〜って思います。

 


 ただ、問題なのはこれで社会が回るのかということです。僕たちが安心して「縄文還り」できるのは、できる環境が整っているからです。怪我をしてくれたらすぐに治療してくれるお医者さん、魅力的なゲームを制作してくれる人たちなど、そういった人たちがいるから、快適に過ごせるのです。

 だからAIがとんでもなく発達して、人間の殆どが働く必要がなくならない限り、「縄文還り」は成立しないでしょう。

 

  とは言っても、先述したように現代は過去に類がないくらい「動物的欲求」が満たしやすい時代です。でも、「縄文還り」はできない。努力の必要性や義務、責任は未だ残っている。ここに、現代人の生きづらさの一つがあると考えています。

 簡単に動物的欲求が満たせてしまう。常に誘惑が周りにある。だから、煩わしい勉強や人間関係構築などに踏み出す一歩が踏みだす難易度が上がっている。本当はその先に、努力をしたり、義務や責任を主体的に果たそうとするその先に「社会的貢献による充実感」や「人間関係の深化による一体感」などの「人間的幸福」が待っているのに、そこに辿り着かない。

 人間的な幸福に辿り着きづらくなっているということが、社会がなんとなく暗〜くて、諦め感に満ちている原因なんじゃないでしょうか??



 こんな時代に生きている子供達を育てていかなくてはいけない僕たちは、子供に、いかに人間的な幸福を味あわせてあげるかが大事なんじゃないかなって思います。

 努力したら、成績が上がった!

 学級の仕事を頑張ったら感謝された!

 学級で一致団結したら、なんだか気持ちよかった!

 こんな経験をたくさんさせてあげなきゃいけないなあと思ったところです。

 

 

 また、子供達がこのように感じる教育をするためには、先生たちが「人間的幸福」をたくさん味わえる環境を作っていかなくてはいけないのだなって思います。

 ちょっとした努力でも評価され、

 職場に「ありがとう」が満ちていて

 職場がチームとなっていけるような

 そんな環境をまずは、先生たちが作っていかなくてはいけないなあと思ったところです。


 



  手をつけるところがいっぱいありますが、どこから始めますか??僕は、心の余裕がある限り、自分から始めていけたらなって思います😀






 

 


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