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理想の社会を作るためには「ICT無理」なんて言ってる場合じゃない



 アベンジャーズってご存知ですか?

 昨日もニューヨークにやってきたエイリアンを倒して地球を救っていた彼らです。地球最強のヒーローチームです。

 メンバーはキャプテン・アメリカ、アイアンマン、ソー、ハルク、ホークアイ、ブラックウィドウが主要メンバーです。

 彼らは単純な戦闘力も能力もルーツも価値観も多種多様で、それぞれ主体性をもって行動します。それ故に、時には仲間割れしたりします。でも団結した時は大きなパワーを発揮します。「全体は部分の総和に勝る」を体現したようなチームです。



 僕は、日本社会もアベンジャーズみたいだったらなあって日々思っています。

 社会の成員それぞれが能力もルーツも価値観も多種多様で、それぞれ主体性をもって行動していて、時にはぶつかり合ったりするけれど、団結したら大きなパワーを発揮する。そんな社会です。

 そんな社会になれば、きっと日本は個人としても、社会としても明るくなるのではないでしょうか??


 この主張の理由を考えるにあたって、「アベンジャーズみたいな社会」の逆を想定してみましょう。

 「アベンジャーズみたいな社会の逆のような社会」とはどんな社会でしょうか??

 社会の成員が能力もルーツも価値観も似ていて、それぞれが受動的に行動していて、それ故に争いは起きず平和だけれど部分の総和、なんなら総和以下のパワーしか発揮されない。こんな社会です。

 こんな社会だと、まず個人として不幸です。人間それぞれ個性があるはずなのに、それが無理矢理均一になっている状況は健全とは言えないでしょう。平均値から大きく外れた人間は不幸にならざるを得ません。

 また、主体性が発揮できない雰囲気、「出る杭は打たれる」雰囲気も不幸の要因の一つです。自己実現の際に常に周りの目をうかがわなくてはいけません。

 争いが起きないのは良いけれど、それは表面上のものであって内面にはドス黒い何かが渦巻いています。インターネット上にはきっと醜い世界が広がっているに違いありません。

 そしてこんな社会だと、社会自体が成長しません。みんなが自分の可能性に蓋をしながら、半ば足を引っ張りあっているのですから、社会にエネルギーが生まれるはずもありません。

 個人と社会は相互的な関係にありますから、個人が不幸になれば社会も暗くなりますし、社会が暗くなれば個人は不幸になります。マジで負のループです。

 経済的に豊かでイケイケモードだったら良いかもしれませんが、それが途切れたら閉塞感渦巻く社会になってしまうのではないでしょうか。


 じゃあ「アベンジャーズみたいな社会」だったら??

 こんな社会だと、個人は幸せです。個性を抑圧されることなく、みんなそれぞれに個性を発揮できる機会があるので、みんなが自分らしくあれます。

 主体性をお互い認め合えるので、思い切った挑戦を周りが面白がったり、応援してくれたり、アドバイスをくれたりします。みんなに自己実現のチャンスが生まれます。

 インターネット上はきっと、互いの意見をぶつけ合って新たな学びを展開しようと試みる人や、温かいコメントをする人で溢れているでしょう。

 こんな社会だと、社会自体がどんどん成長します。みんなが自己実現のための行動を認め合う土壌ができているのですから、みんながどんどんチャレンジし、新たな価値を生み出していきます。

 個人と社会は相互的な関係にありますから、個人が幸せになれば社会が明るくなりますし、社会が明るくなれば個人が幸せになります。

 経済的に豊かでなくとも、成員それぞれが自分らしさを発揮して活躍できる社会であるわけですから、幸福感あふれる社会になっていくのではないでしょうか。


とはいえ・・・



「理想論すぎるだろ!!!」




そう思われると思います。

 そうなんです。このような社会を生み出すには、乗り越えなくてはいけない課題がたくさんあります。

 第一要件として、「成員としての個人が人格的に成長すること」が必須です。

 「主体的に行動できる」「違いを認め合える」「価値観の異なる他者と合意形成ができる」このような力が必須になってくるのです。

 じゃあ、日本人の人格を成長させるためには何が必要か。




 そう。




 教育です。




 「アベンジャーズみたいな社会」のような理想の社会は人類史上、実現していない社会です。

 じゃあ不可能なのか??

 
 僕はそうは思いません。教育の力によって可能だと考えます。

 事実として人類はこれまで不可能だとされた社会を次々と築き上げてきました。「戦乱のよから平和の時代へ」。「一部の人しか豊かになれない時代から多くの人が豊かになれる時代へ」と。

 これらが可能となったのは、人類が積み上げてきた叡智や教訓を次の世代に伝え発展させていくこと、つまり次世代への教育を繰り返してきたからに違いありません。

  そうであれば、「アベンジャーズみたいな社会」もいつかは実現するはずです。



 そして、教育の担い手となるのは我々、教員です。僕たちは理想の社会を実現するために、子どもの「主体的に行動できる」「違いを認め合える」「価値観の異なる他者と合意形成ができる」(=新しい学力)というような力をつけてあげなくてはいけません。

 その一環が、「子ども主体の学びの実現」であり

 それを具体化したものが「伏線型の授業」であり、

 さらに具体化したものが「自由進度学習」であり、

 そのために必要となってくるのが「教員のICTの活用」なのではないでしょうか??

 だから僕たちは

 「ICTなんて使えない」。

 「自由進度学習なんて無理だ。」

 なんて言っている場合じゃないのだと思います(言いたくなる気持ちはめちゃくちゃわかりますが・・・😢)。


  
 ICTの活用で「主体的に行動できる」「違いを認め合える」「価値観の異なる他者と合意形成ができる」力が育つのか?という疑問があるかと思います。

 この問いに対して、僕は「わからない。でも、従来の授業に比べたら可能性は高まる。」と答えます。

 僕たちが受けてきた「板書とノート型」の授業は「板書とノート」しかなかった時代においては最善なものでした。力量の高いベテランがする「板書とノート型」の授業はもはや芸術レベルです。

 ただし、達人レベルが行う授業であっても課題はありました。全員の学びを見取って即時フィードバックするなんて不可能だし、適切な学びの方法と速度は児童によって違うという大原則を完全に保証することができませんでした。キャプテン・アメリカとアイアンマンに両方肉弾戦で戦えと言っていたようなものです。

 これじゃあアイアンマンが拗ねちゃいますよね。


 でも仕方なかった。これしか方法がなかったからです。

 でも今やその制約はありません。タブレットがあります。クラウドツールがあります。

 「複線型」にすることで、キャプテン・アメリカやハルクは肉弾戦、アイアンマンやホークアイは遠距離戦闘、ブラックウィドウはステレス戦闘を選ぶことができるようになります。

 自分の得意で戦えるので自信がつき、主体性が高まります。自分にない周りの凄さも見えてきます。全員違って、全員に価値があるということに気づきます。

 具体的には、

 全員の学びを見取って即時フィードバックすることが可能です。教師は子どもにとって最適な学びを提供することができます。子ども同士の意見を瞬時に繋げることも可能です。そうなれば、子供は自分のあった学び方を見つけ、自分で学びを調整できるようになります。自分の型を見つけ、成長できることを知った子供はどんどん主体的に学ぶようになる可能性が高いと考えます。

 また、「板書とノート型」だと子供は「45分の中で、たくさん発表し、問題をたくさん解ける子=優秀」という価値しか実感できなかったと思います。でも、子供たちは異なる学び方をする他者と、日々接していく中で価値の多様性を実感します。「じっくり一つの問題について深く考え、より深い理解に至る子=優秀」。「言語化は苦手だけど、絵でわかりやすく表すことができる児童=優秀」。「友達に教えるのがとても上手な子=優秀」。というように、たくさんの「優秀」があり、それぞれに価値があることを実感する可能性が高いと考えます。

 最後に、「板書とノート型」ではどうしても、教師の教えやすさを優先せざるを得ない側面がありました。だから、多様な意見が児童から出ていても授業の流れに沿った意見しか取り上げることができませんでした。でも、ICT活用により児童はお互いの意見を自由に相互参照できます。そこでさまざまな価値観に出会えるわけです。このようなことを繰り返せば価値観の異なる他者と合意形成ができる力の素地も自ずとついてくる可能性が高いと言えます。

 

 

 よって僕は、ICTの活用で「主体的に行動できる」「違いを認め合える」「価値観の異なる他者と合意形成ができる」力が育つ可能性が高いと考えます。

 


 この間受けた研修でこんなことを言われました。


 「教員は板書とノート型から複線型へと授業観の転換を図らないといけない。」
 

  僕は、授業でICTの活用をするときに、無意識に「板書とノート型」に当てはめようとするところがありました。 

 でもこれは、原付にバイクのエンジンを取り付けるようなものなのそうです。先述したように、板書のノート型は洗練されています。 ICTの活用などなくても、これまでの学力観を身につけるという意味では事足りていたのです。

  だからこれからは、校内の研究授業などでも、価値観を転換させ、ICTを「複線型」の授業で活用することを考えなくてはいけません。

 すでに洗練されている「板書とノート型」を研究するよりも、まだまだ洗練されておらず課題だらけの「複線型」に授業観を転換させる方が有意義だと考えるからです。

 

 




 とはいえ・・・・「新しい学力」を身につけるた目には「これまでの学力」も必要です。だから、「板書とノート型」の授業は今後も残り続けると思います。

 特に低学年、中学年では「板書とノート型」が主になってくると思います。炭治郎が徐々に「水の呼吸」から「日の呼吸」に切り替えていったように、学年が高まるにつれその比重が変わってくるというイメージを僕はもっています。

 また、防御に優れた「水の呼吸」、攻撃力に優れた「日の呼吸」のように「板書型」「複線型」それぞれに良さがあります。

 だから今後は中途半端に「板書、ノート、ICT」を同時に使うのではなく、「この学力を身に付けたいときはノート!」「この学力を身に付けたいときはタブレット!」のような使い分けが進むのではないかというのが僕の予想です。


 
 複線型の授業・・・。新しい学力を身につける可能性を少しでも上げ、理想の社会に近づくためにも、日本の教員が一丸となって研究していかなくてはいけませんね!

 実は教員に課せられた使命と責任というのは僕たちが思っている以上に重いのかもしれませんよ・・・。

 僕レベルの人が教員やってていいのかな・・・???

 もっと優秀な人が教員やった方がいいんじゃないのか????

 

もっと教育にお金使って優秀な人を雇わんかい!!日本!!


 


 


 


 


  

 


  


 






 

 


 

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