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名人級の教員の授業を端末で見せるではダメなのか?〜問題提起〜

 あらゆるものが日々進歩していますよね。将棋も、スポーツも、漫才も、医療も、どんどん理論・技術が複雑化してきて学ぶべきことが多くなっています。

 教員の世界の授業も例外ではありません。

 例えば、今僕は授業の基本中の基本、発問について勉強しています。

 その中でさまざまな書籍を読むのですが、発問一つをとってもまあ奥深い・・・。さまざまな理論があってそれぞれが複雑に絡み合っています。冬休みでこれらを理解しようと思った自分が浅はかでした笑

 さて、そういう書籍の中でスーパースターみたいな先生たちと出会います。こんな先生方のレベルに達するには何千年かかるんだろう・・・って思うくらいすごいです。

 そういう先生方と出会うたびに思います。



「え・・・この人たちの授業を、僕の教室でも配信したらいいんじゃ・・・」


と。



いや、わかりますよ。授業は先生と子供同士の相互作用で大きな価値を生み出せるものです。だから、一方方向の動画じゃそれらの価値を実現できませんよね。

 ただ、そんな子供同士の相互作用を生み出せる授業ができる教員がどれだけいるかって話です。

 現時点の僕は当然無理です。

 そうであれば、めちゃくちゃ知識の伝達に長けた先生の動画を学びの選択肢の一つとして配置し、子供たちが自由進度で学んでいく方が良いのではないかと思ってしまうんですよね〜。

 

 また、書籍に出てくるような名人級の先生たちが今後どれだけ現れるのかって話です。

 現状、先生方は現場の対処で一杯一杯です。また、人数不足で新人にも即戦力が求められるため、リスキーな挑戦をするような人は求められづらい状況です。さらにさらに、働き方改革は今後も加速していくでしょう。

 こんな現状で、自己投資のために研究や実践を積み重ねられる先生ってどれだけいらっしゃるのでしょうか?

  

 これらの現状を踏まえ、名人級の先生の動画配信を学びの選択肢の一つとして授業に組み込んでいけばいいのではないかと、短絡的に思いました。

 



 冗談半分で書いた記事だったのですが、この問題はもしかしたら本気で考えていかなくてはいけないのかもしれません。

 「失敗の本質」という書籍があります。太平洋戦争で日本が敗北した理由を分析した本です。

 その一つとして、「個人の能力に依存する」というものがありました。全体的なシステムや仕組みよりも、現場で働く個々人の優れた能力や努力に大きく依存する傾向が強かったのです。

 これは学校現場でも見られる特徴なのかなって思っています。一部の熱意のある先生が教育実践を進めていきますが、そういう研究熱心な先生とそうじゃない先生の間に深い溝があるような気がしています。

 でもそれもそのはず、授業というものの性質が非常に高度な技術を有するものだからです。学問の本質理解、論理的思考力、子どもの心情理解、学級経営力、場当たり的な発想力、その他諸々の要素が必要なものなのかなって思います。

 こんな性質があるのにも関わらず、教師たちは一律の結果を求められるわけです。新人もベテランも一律にです。無理ゲーですよね笑

 だから、今後の教育研究には「システム」という視点が非常に重要になってくるのではないでしょうか?

 各個人の教師の努力や技術に依存せず、誰もが一定の成果を出せるような仕組みを作っていかなければいけなのかなって思います。

 

 自分は決して自由進度学習信者ではありません。むしろ、そういう名人が行う、子ども目をキラキラさせて臨むような授業が大好きです。自分もやりたいです。

 ただ、「誰もが一定の成果を出せるシステム作り」という観点から見たとき、自由進度学習は相性がいいのかなって思います。

 一斉授業でこども主体の学びを生み出すには、先述したような名人芸が必要ですが、自由進度学習であれば環境さえ整えてあげられれば子どもは主体的に学ぶことができます。

 だから・・・今後は、段階的に自由進度的な「環境を整える教育」にシフトしていく・・・のかなあ???



 「名人級の先生の動画配信じゃダメなのか?」

 以前の自分なら「ダメだろ。一斉授業にしかない良さがある!」って答えていたと思うのですが、無視できない議題になっているように思います。

 


 皆さんはどう思いますか?


 


 ※ちなみに僕が考える「ダメな理由」は

 ・一人の名人に全責任を負わせることになる
 ・教育の多様性が失われ、より良い教育が生まれなくなる。教育研究が停滞する。
 ・創造性を生かせないので、授業が好きな先生たちのモチベーションが下がる
 ・子どもの多様性に対応できる?


 

 

  





  

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