僕が教員をするのは大義のためではなく、自分のためなのかもしれない。
僕には大義があります。「すべての子どもを人生の主人公にする」ことです。このために僕は教員をしているつもりでいましたが、どうやらそうじゃないのかもしれないなと、ついさっき思いました。
僕が教員をするのは、
「授業という道具を使って、幸福感を味わうため」
シンプルにそれだけなのかもしれないと現時点では感じています。なぜこのような結論に至ったのかを伝える記事にしていきたいと思います。
それではよろしくお願いします!
理由は3つあります。具体的なエピソードを交えつつ、説明していきます。
理由1 授業さえうまくいっていれば、全てがうまくいっているように感じる
授業がうまくいったか、いかなかったがで僕の1日は決まると言っても過言ではありません。授業がうまくいかなければ不幸な1日としてカウントされますし、その逆であれば幸福な1日としてカウントされます。
もっと言えば、授業さえうまくいっていれば全てがうまくいっていると感じます。授業がうまくいけば、子どもと心の底から笑顔で接することができるし、授業がうまくいけば人助けをしたくなるし、授業がうまくいっていればご飯が美味しいし、授業がうまくいっていれば気持ちよく眠れます。
僕にとって授業とは、藤井聡太にとっての将棋、大谷翔平にとっての野球と同じなのかもしれません(彼らみたいな才能はないですが。)。
理由2 子どもに「授業が楽しかった」と言われた時に一番貢献感を感じる
先日、去年教えていた児童に「先生の教え方上手(だった)」と言われました(急に)。
また、不登校傾向の児童が学校に来た時に、「国語の授業が楽しかった!」、別の日には「算数の授業楽しかった!」と言ってくれました。
僕はこの時に一番存在意義を感じます。誰かに貢献できているという気持ちを感じることができます。
僕は僕のままでいいと思えます。
理由3 授業を作っている間はフローに入れる
11月に研究授業が控えています。その指導案をついさっき作っていたのですが、ふと時計を見たらいつの間にか2時間経っていました。
その間は世界から悩みも劣等感も全てが消え去り、ただただ目の前の指導案作成に集中していました。
これらのことから言えるのは、僕は<授業>という行為を通して、「達成感」「貢献感」「負の感情からの解放感」、つまりは「幸福感」を感じているということです。
この発見から導き出せる行動計画は
悩んだら授業を作れ。暇だったら授業を作れ。
というとてもシンプルなものです。
ワークライフバランスが叫ばれる昨今、僕もその言葉に引っ張られ、自宅で授業を作っている時間を面倒なものだと感じてしまうことがありましたが、多分僕は遊ぶよりも、何をするよりも授業作っている時に幸せになれます。
そうであれば、罪悪感なんてもたずに授業作りに励んでいきたいと思います〜😀
ここまで読んでくれて、ありがとうございました!!
余談です。どうして僕は授業がド下手にも関わらず、ここまで授業が好きなんでしょうか?
ここに関してはまだ言語化できていないし、考えると余談なんかじゃすみそうにないのでまた別の機会に考えてみます。